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おはようございます
深いですねー
体力・気力・自信が無いと出来ないことですね。
すごいです。
私の場合は、マイペースで登りたいのと、気に入った場所では十分に
時間をとって我がままに使いたい が単独の理由です。
一歩々々 周りに目配りしながらそこに居る生き物や地質の変化などを
楽しんでいます。
カブ
一人っきりで夜を山で過ごしたことは何度かありましあが、印象に残った夜は既にアップした3件のみです。その気になればご紹介することがあるかも知れませんが、今回はこれで打ち切りです。 シリーズ②③の南アルプス縦走は、仁田池小屋の翌日以降は聖平小屋→聖岳→兎岳→百間洞小屋→赤石岳→荒川小屋→悪沢岳→荒川小屋→悪沢岳→転付峠→新倉。 ② http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 ③http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 聖平小屋は無番ですが、賑やかでした。百間洞小屋と荒川小屋は食事は出ません(当時は南アルプスで食事のでる山小屋は北岳を除いてはなかったように思います)が一応番人はいました。 何の弾みだったか、荒川小屋に泊まった翌日、教員のアベックと小屋番との4人で悪沢岳に登ることになり、頂上で小屋番からウイスキーをしこたま頂いて酔っぱらって小屋に戻りました。夜、一緒に晩飯を食え!と小屋番の部屋でご馳走になりまた。翌日、アベックから三伏峠に行こう…との誘いを受けましたが、財布の中がもう乏しいことに気づき、誘いを断って新倉を15時に出る最終バスの乗ろうと大急ぎで悪沢岳、千枚岳、二軒小屋、転付峠と走りましたが30分程遅れ、新倉で旅館と交渉、素泊まり料を大分値切って泊まった記憶。後で別のポケットからお金が出て来ました。 私も若い頃は街では孤独に耐え難い…とキザなことをほざき、一人で山に籠もれば人が懐かしくなる…と好んで一人歩きをやっていました。 最近は山の道具も技術が進んでテントも軽くなり、山ガールも一人用テントを持って気軽に単独登山をやっているようですね。 いい年したオッサンが悲愴な(でもないか)顔して山の夜を一人で過ごして、精神的にタフになった…などと自慢しているのが喜劇に見えますね。 50年以上前に単独行について労組支部の文集(http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 )に投稿したものを貼り付けます。キザっぽくて少し恥ずかしいですが、どうせ一度公開したものであり、私の過去の一現実です。より大勢の人に見て貰う方が書いた意義が深くなります。 ……………………… 【愛】 私は、愛の根源は孤独より発すると思う。 世の中の自分と云うものを深く考える時、自分は孤独であると思う。特に、自分が何かを悩んでいる時、しみじみとそれを感じる。 その悩みを言葉で伝えてみても、全然相手にされないか、叉それを聞いて慰めてもらっても、突際の苦しい気持を他人は感ずる事が出来ないのである。ある単純な肉体的苦痛にしても他人には感じ得ない。恋人と二人で星の美しさを讃えてみても、星に対して持つているイメージ、叉それによつて起る連想は二人とも同じである苦がない。 永遠の昔から未来に渡つて、自分は一人しか居ない。他人に自分が完全に理解される筈はなく、自分の喜びや悲しみを他人が彼自身の喜びや悲しみとする…なんてことはあり得ない。自分を知る事が出来るのは自分だけである。 自分の孤独を苦しんでいる時、やがて他にも孤独な存在がある事を、他人も孤独に苦しんでいる事を知る。自分は大洋の孤島に住むロビンソンクルソーだと思っていたが、隣の島にも一人で住む人が居たのである。一緒に住むことは出来ないが、何とか声は届く。 それを知つた時、他人も自分と同じ様に苦しんでいるのを知つた時生ずる感情、それが愛ではないだろうか。それは相手に何を期待するわけでもない。その人が居ることを喜ぶ気持、相手に対するいたわりの気持、人の存在を尊重する気持と云つたものだろう。相手の性別、美醜、性格等に関係しない。そこには何の理由もない。強いて根拠をつけるならば、人が存在するからである。そう云つた意味で、親と子、恋人同志の愛も、身近に居る事以外は他人と異る所はない。 所謂親の愛は、子が少々不出来でも変らない事が、私の云う様なものに近いが、もし他人の腹から生れておれば全然様子が異ると思われ寂しく感じる。 恋人同志の場合、相手が美しい、誠実である、尊敬出来るから…等は、単なるエゴイズムの現れである。相手のそういつた良き性格に自分もあやかろうと欲つしているに過ぎない。相手の気持が判らない事が不安であり、排他的になつたり、裏切られたと云っては憎しみに変つたり、一時的に燃上つては急に冷めたりする。 愛とはもっと平和で、もつと冷やかで、もつと大きく、もつと普遍的なもの ではないだろうか。 私は、孤独なる考を知つた頃、一人で山に登る事をおぼえた。なるべく人の居ない山を探して、何日かそこを一人で歩いた。獣道の申に踏跡を見失つてうろうろしたり、山頂で怒涛の如く山々を洗って流れる雲を飽かずに見とれたり、霧雨の降る日に一面ガスのかかった原始林の中を歩いたり、リュックを投げ出してお花畑に横になつたり、又、岩蔭で一人もそもそ夕食を噴い、寝袋の申から夜空の星を眺めたりした。又、冬の山の厳しさ、恐しさ、雄大さも味つた。そして卑小な人間に対して、自然が如何に大きいかをしみじみと感じた。そしてむやみに人が恋しく思った。どんな背景を持つた人でもよかつた。何を期待するわけでもない。たゞ人が居ればよかつた。 この様な愛は、相手の美しい顔が外傷によつて醜くくなつても、又極端な経験の為にその明析な頭脳が純つたり、尊敬すべき性格が少々歪んでも変るものではないだろう。期待を裏切つたからと云つて、愛は憎しみに好つたりしないだろう。 その存在への感謝の気待があれば、人を慰める為に自分を抑えて道化師を演じもするだろうし、共同生活の為には犠牲も厭わないだろう。 この様に、人が存在する故に、その存在を尊重しようとするのが愛であると思う。 |