死後の世界の有無、それは死後の世界の定義によるだろう。
自分と他、例えばなつかしい親や旨い食べ物、美しい景色…などを認識できる自分が存在する世界だ…と定義するなら死後の世界は存在しない…と私は考えます。なつかしい、旨い、美しい…と感じる五感や思考機能は肉体と共に滅びるからです。肉体から離れた私が閻魔大王に睨まれたり、極楽浄土にいってなつかしい親に会う…などの世界はあり得ない…と私は思っています。睨まれて怖い…とか、懐かしい…とかを感じる感覚器官を有していないからです。
自分の命は宇宙が出来る前の、混沌とした雰囲気・前宇宙が存在していた時から延々と繋がっているのであって、この世においてこそ対象と自分という意識(自他の分別意識)を持てるが、死ねば生前から持っている、他と自己とを対比する感覚を持たない命がのこるだけの筈だ。自分の命と他人の命と全く一体である。動植物の命とも同様である。個別の自己が存在しない世界。それを死後の世界…と考えるなら死後の世界は存在する…と云ってもいいだろう。
(もし、自分の死後も他と区別される自分の命が存在するとすれば…。 そこには人類が出現して以来の無限の数の死んでいった人の命が存在する筈だ。人間だけである筈もないから、イヌやネコ、恐竜、カエル、蚊や蠅、はてはウイルス?の命も存在する。まことに窮屈な世界になっていそうだ。殺した人間と彼に殺された人間、食べた動物と食べられた動物の命も共存する。コノヤローと腕力を振るうにも腕はなし、口論しようにも口はなし…。ストレスが溜まりそう。もし憎き相手を殺す手段が存在すれば、そこで死んだ命は次は何処に行く?)
…と考えを決めれば何の不安も生じないだろう。罪を重ねたのであの世で罰を受ける…なんてあり得ないので恐れる必要はない。善行を重ねたから…と云って幸せな極楽の生活が味わえる…なんて期待しても無意味である。幸せ・喜び・悲しみ・苦痛…などを感じるシステムが存在しない。
その状態に入ること怖いか? 怖がる根拠はなさそうである。夢を見ていない状態の睡眠と、意識としては何が異なるだろう。
臨死体験なるものがある。私は脳の活動有無の判定に問題あるために、意識があるのに脳が活動していないとの誤判定のされいるだけだと思っているが、その時の意識は不快なものではなさそうなことは私を安心させてくれる。
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自分の死を考える①
http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 自分の死を考える ②間際の肉体的苦痛
http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 自分の死を考える ③遺族への諸情報伝達不足への不安
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