>国民のうち英語が必要なのはせいぜい数%しかいない、という日本の状況は世界でも珍しいのです。
かならずしも英語を話せば教養人ということでもないようですね。英米流の高等教育が可能になるということでもないようですね。
人類の知識の大半は、英語の文献として蓄えられているのではありませんか。
漢字は漢人 (中国人) の考えを表すために作られた文字であります。ですから、漢字は外国人の意味を表すために作られてはいません。中国人自身の考えが増えなければ漢字の数も増えません。我が国には、カナ書き外来語が増えてくる。中国人は、どうしているのかな。 日本語の概念用語は英語に対する漢語の当て字ですね。当て字は真の意味を伝えるとは限らないでしょう。人工語の欠陥か。だから、我が国では、概念・観念の学習に対する不具合と疑問が絶えることがない。かくなる上は、丸暗記するしか手がない。詰め込み教育は、教育大国と自称する我が国のアキレス腱となっています。
特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無いので、民は非現実の内容を文章にして考えることができません。それで、無哲学・能天気になっています。我が国民に対する曽我部氏の懸念は、以下のような内容です。
懸念されるのは、自民党の憲法草案で基本的人権をめぐり天賦人権性が否定されていることだ。これは近代の人権観念の端的な否定であり、見過ごせない。立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は欧米由来のものであり、これらを後に受け入れた日本を含む国々では反発を呼ぶこともある。しかしこうした諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならない。 (曽我部真裕 京都大学教授) (引用終り)
多様な個人の共生を可能にする国は、外国人の共感をよびます。移民・難民の殺到する国になります。だから、民度の高さが外から見てもわかります。決して国土の広さでもなく、資源の豊富さでもない。人間の問題です。
日本語には概念がない。言葉のみで理解する内容が無い。 日本語の内容は、見ればわかるものばかり。それは、現実の内容である。文章の内容は、頭の外にある。 英語には、現実の内容以外にも内容がある。それは、非現実の内容で、概念である。 英語には概念がある。言葉でしか理解できない内容が存在する。その内容は、外から見てもわからない。文章の内容は、頭の中にある。
フランク・ギブニー氏は、著書 <人は城、人は石垣> の中で以下のように指摘をしております。
日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。 英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。
他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り)
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