1,145万kW/1,580万kW (04/20 02:20)
72%
2016年08月22日(月) 

 

 

 

 

>国民のうち英語が必要なのはせいぜい数%しかいない、という日本の状況は世界でも珍しいのです。


情報交換に関する鎖国状態ですかね。


>例えば、英語の話せるインド人は9千万人以上いるといわれています。総人口が12億6千万人なので、それでも7%ですが、国際会議や向上の場で、インド人があの変わった抑揚の英語でリードしている場面には良く出くわします。
>インドの大学では英語で授業が行われています。これは5百万人以上の話者を持つ言語が26もあるという多言語国家で、英語が準公用語となっていることと、大学の教科書は英語で揃っているので、そのまま使ったほうが効率的であるという事情があります。

 

かならずしも英語を話せば教養人ということでもないようですね。英米流の高等教育が可能になるということでもないようですね。

>そもそも世界で、自国語で大学まで学べるという国はそれほど多くはありません。ヨーロッパでもドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語などの大言語を除けば、デンマーク語とかアイルランド語とかチェコ語といった話者の少ない言語の国では、大学の教科書のような少人数向けの本は出版出来ないからです。

 

人類の知識の大半は、英語の文献として蓄えられているのではありませんか。

>もう一つは、大学で使う高度な近代的概念用語を揃えた言語もそれほど多くない、という事情があります。例えば、「中華人民共和国憲法」とか「北朝鮮民主主義人民共和国」などでの「人民」、「共和国」、「憲法」、「民主主義」などは、日本も明治の先達が漢字にした概念用語を直輸入して使っているだけです。

 

漢字は漢人 (中国人) の考えを表すために作られた文字であります。ですから、漢字は外国人の意味を表すために作られてはいません。中国人自身の考えが増えなければ漢字の数も増えません。我が国には、カナ書き外来語が増えてくる。中国人は、どうしているのかな。

日本語の概念用語は英語に対する漢語の当て字ですね。当て字は真の意味を伝えるとは限らないでしょう。人工語の欠陥か。だから、我が国では、概念・観念の学習に対する不具合と疑問が絶えることがない。かくなる上は、丸暗記するしか手がない。詰め込み教育は、教育大国と自称する我が国のアキレス腱となっています。

>輸入品だから、いつまでも憲法や民主主義が根付かないのだろうと皮肉の一つも言いたいところですが、逆に日本から輸入した概念用語が無ければ、中国語や朝鮮語では大学教科書は作れなかったか、作れても何十年も遅れたことでしょう。

 

特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無いので、民は非現実の内容を文章にして考えることができません。それで、無哲学・能天気になっています。我が国民に対する曽我部氏の懸念は、以下のような内容です。

 

懸念されるのは、自民党の憲法草案で基本的人権をめぐり天賦人権性が否定されていることだ。これは近代の人権観念の端的な否定であり、見過ごせない。立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は欧米由来のものであり、これらを後に受け入れた日本を含む国々では反発を呼ぶこともある。しかしこうした諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならない。 (曽我部真裕 京都大学教授) (引用終り)

 

多様な個人の共生を可能にする国は、外国人の共感をよびます。移民・難民の殺到する国になります。だから、民度の高さが外から見てもわかります。決して国土の広さでもなく、資源の豊富さでもない。人間の問題です。

>自国語で大学教育ができるというのは、それだけその言語で高等教育を受ける人口規模が大きいことと、その言語が高度な近代的概念用語を揃えている必要がある、ということなのです。

 

日本語には概念がない。言葉のみで理解する内容が無い。

日本語の内容は、見ればわかるものばかり。それは、現実の内容である。文章の内容は、頭の外にある。

英語には、現実の内容以外にも内容がある。それは、非現実の内容で、概念である。

英語には概念がある。言葉でしか理解できない内容が存在する。その内容は、外から見てもわからない。文章の内容は、頭の中にある。

 

フランク・ギブニー氏は、著書 <人は城、人は石垣> の中で以下のように指摘をしております。

 

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。

英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

 

他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り)

 

 

 

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閲覧数519 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/08/22 15:16
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