2017年08月02日(水) 

 

>第二次世界大戦中の昭和19年。高知県幡多郡清水在住の清水豊松(しみず とよまつ)は、気の弱い平凡な理髪師。戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、応召することになる。

>内地のある部隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。ある日、撃墜されたアメリカ軍B-29の搭乗員が裏山に降下。司令官の「搭乗員を確保、適当(2008年の映画版では「適切」)な処分をせよ」という命令が豊松の中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった搭乗員を発見。そこで豊松は、隊長から搭乗員を銃剣で刺殺するよう命じられた。しかし生来の気の弱さから、実際には怪我をさせただけに終わる。

>終戦後、豊松は除隊。無事に帰郷し、妻と営んでいた理髪店で再び腕を振るっていた。しかしある日、特殊警察がやってきて捕虜を殺害したBC級戦犯として彼を逮捕し、豊松は理不尽な裁判で死刑を宣告される。彼は処刑の日を待ちながら「もう人間には二度と生まれてきたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺書を残すのだった。

 

司令官の命令である ‘適当・適切な処分’ とはどういうものであろうか。’銃剣で刺殺すること’ であろうか。いやいや、そんなことはないであろう。そんな極端なことは考えられないであろう。

適当・適切とは、不適当・不適切でも構わないという意味であろうか。リーズン (理性・理由・適当) などは、どこかに飛んでいるのであろうから、隊長にリーズナブルな答えなど出るはずが無い。感情的恣意決定であれば、それは、’銃剣で刺殺すること’ になるであろう。現実はその通りになって、司令官の ‘適当・適切’ は、いわゆる ‘きれいごと’ になる。だから、責任を取る司令官は存在しない。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制というものがないので、日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。

意思は、文章になる。文章には意味がある。伝達される情報は言葉の中で全て提示される欧米文化においては、’言ったか・言わなかったか’ は問題になる。

恣意は、文章にならない。バラバラな単語には意味も無く責任もない。小言・片言・独り言には何の意味もない。重要な情報でも言葉に表現されないことがある日本文化においては、’言ったか・言わなかったか’ では物事は決着しない。

官庁においても政治指導者の曖昧な言語に対して、官僚たちは忖度 (推察) で応じている。いったん責任追及の火の手が上がれば、意思もなく責任感もない政治指導者に ’言ったか・言わなかったか’ と欧米流の勝負を挑まれて、官僚たちは路頭に迷う。だから、彼らは貝になりたいと想うであろう。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

 

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閲覧数30 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/08/02 14:44
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