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2017年10月15日(日) 

 

>「長谷川豊氏はそもそも本音で議論したら社会は壊れるという大前提を忘れてるんじゃないだろうか(リンク)」という記事を見た。

 

本音は恣意 (私意・我がまま・身勝手) ですからね。文章では言い表せないでしょう。バラバラな単語のままで存在します。小言・片言・独り言として発せられ、忖度 (推察) で相手に受け取られます。忖度は、自分勝手な解釈で、論拠になりません。正しい考え・正しい理解の言語学習の道から大きく外れています。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章には意味があり、矛盾があればそれを指摘することもできます。ですから、考えの内容は議論の対象になります。

 

>(以下引用)

> だから人間の本音は仲間内で管を巻くぶんにはかまわないが社会に組み込まれてはいけない。

 

本音には意味が無いのですから、公言・議論の対象にはなりませんね。

 

>個人の本音はけっこうな確率でいびつでゆがんでいて社会性のかけらすらないことがほとんどなのです。

 

意味のないものには、社会性もないでしょうね。

 

>人間はその能力以上に知力や理性を鍛えることのほうがはるかに難しいものです・・・僕の短い人生という経験上はいまのところそういうことになっています。

 

リーズン (理性・理由・適当) は、大切ですね。個人のリーズナブルな提案は貴重です。

 

>(以上引用)

 

>「本音には社会性が無い。だから建前は大切」という議論はよくある。

 

本音は恣意です。建前は処世術の口実に使われます。むないし限りですね。

 

>本音で社会が統合できないなら、人類は常に本音を押し殺し建前で社会を作らなければならなくなる。

 

本音・恣意では社会を統合できませんね。意味が無く、リーズナブルでもない。口実・建前の社会は、無哲学・能天気の人たちばかりになりますね。

 

>そうなれば何らかの建前に収束していくのも当然であって、本能や共認を否定・捨象して出来合いの観念に飛びつく。

 

口実は、出来合いの観念ですからね。弟子は、師匠に教えを乞う。そして、授けられた建前を暗記する。

 

>(「勉強脳」が大人になっても継続し得る背景ではないか)

 

建前は口実になるので、法律の様なものでしょう。処世術に励む輩は、’不適当ではあるが法律違反とは言えない’ といったところまで私利を深く追求してやみません。

 

>しかし、建前という観念では統合できなくなった社会にあって、照準を当てるのはむしろ本音の方だ。

 

本音は、文章になりません。ですから、本音は考えではありません。

考えの内容は非現実であり、時制ある文章の内容になります。ですから、考えの体系は哲学になります。

非現実の内容は、時制のある文章内容になりますが、日本語文法には、時制 (tense) というものがありませんので、日本人の考えの内容は、文章にはなりません。ですから、日本人は無哲学・能天気の状態にとどまっています。

英語には、時制がありますので、英米の大学では教養 (哲学) を学ぶことが出来ます。私達日本人も、日本語と英語の両方を学ぶと高等教育が有益なものになるでしょう。

 

>そして、本能や共認からできている「本音」と、そこに混入している自我を理解して、その発現をコントロールできれば、新しい社会を作るための観念群を構築していけるはずだと思う。

 

新しい社会は、未来の社会ですね。未来は非現実であり、その内容は哲学になります。矛盾を含まない文章はすべて正しいので、各人の考えを対象にした選択肢が生まれます。このようにして、我々は夢と希望に選択肢を持つことが出来ます。政治家の論戦も、実のあるものにすることができます。

 

>われわれは自我を恐れず、本音で議論しあうべきだ。

 

本音は文章内容になりませんから、議論もできません。不毛の議論はしないほうが時間の損失を防ぐことになります。

 

 

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閲覧数442 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/10/15 01:36
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