>■資本主義への順応しすぎによる閉塞
>現代日本人の問題は言語思想を持たないことよりも、あまりに資本主義に順応しすぎていることにあるのかもしれません。
資本主義と言うのか、現実の世界の処世術に順応しすぎているのでしょうね。
>資本主義、すなわち貨幣価値を基本とする社会システムへ順応しすぎると、「形式的合理性」の問題に陥ります。
野球ゲームに熱中しているようなものでしょう。形式的合理性では、人生を空しく感じることもあるでしょうね。
>予測可能性が高い、コンビニエンスで安全な社会の中で人々が無気力あるいは、漠然とした不安に陥っていく。
そうですね。この国には何でもあるが、ただ夢と希望が無い。過去は疾く風化し、未来は一寸先が闇である。これでは無気力・不安感は避けられませんね。
>現代の日本人が「自分たちの言葉を持ちたい」と思うことの背景には、異文化に向けて自己の正当性を主張したいというよりも、あまりに資本主義に順応しすぎたことによる閉塞からの反動があるのかもしれません。
全ての考え (非現実) は、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。二者の所在は違うので、両者の内容は同じにならない。 資本主義は頭の外にある。自己の正当性は頭の中にある。頭の外の内容は順応できても、頭の中の内容は文章にならない。 日本語は、現実描写のための言語である。和文の内容は、実況放送・現状報告の内容となっている。現実の内容は本当のこと、非現実の内容は嘘である。だから、日本人は現実肯定主義者となる。彼は、現実を肯定し、非現実を否定する。話にうつつ (現) を抜かしてはならない。現実離れのした内容は受け入れることができない。だから、無哲学・能天気となる。考えのない人は、浅薄な人である。 しかしながら、印欧語文法のように時制 (tense) というものが存在すれば、非現実の内容は過去・現在・未来の文章内容として表現することができます。だから、頭の中に、非現実の三世界は考えとして存在することになります。ですから、印欧語族は ‘考える人’ になる。考えの深い人は、思慮深い人になる。自己の考えを主張することも可能になります。
我々日本人も、英米流の高等教育が受けられると良いですね。そのためには、日本語と共に英語をも熱心に学ぶ必要があるでしょう。さすれば、時制のある自分たちの言葉を持つことが出来ます。異文化に向けて自己の正当性を主張することも可能になります。我が民族は、大きな国際貢献をなすことになるでしょう。
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