>■□■くらべて一喜一憂しても仕方がない>試験の答案用紙を、隣の子どもに覗かれないように腕でかくして、顔を近づけて書いている子がいる。>わたしの小中学生のことにもそういう子がいたし、いまの学校にもいるようだ。>覗かれて、隣の子どもがいい点をとると、自分が損をすると思うからである。
何事も、競争の時代ですからね。油断は禁物です。
>でも、どうしてそれが損になるのだろうか…。>試験というものは、本来は自分の成長度を確認するためのものである。>漢字のテストであれば、以前とくらべて自分はどれだけ漢字を覚えたかを確認し、よかったときは喜び、悪かったときはこれからがんばろうと思う。>そのためのテストだ。>隣の子が何点とろうが、自分位は関係ない。
学生は、そのように 指導されていないからでしょう。何事も、比較の問題です。 学生には、’上とみるか、下とみるか’ が最大の関心事でしょうね。選抜試験の時には、明暗を分けることになりますね。
>それなのに、現在の学校では、子どもたちを競争させるための試験が行われている。>そんなことをするから、学校が刑務所さながらになってしまうのだ。>子どもたちに学習の喜びがない。>子どもたちが学校で味わうものは、他人との競争に勝った、負けたの優越感、屈辱感でしかなくなっている。
優越感を喜びとして、屈辱感をばねにして、学校は学生を勉学に駆り立てているのでしょうね。
>これは、農耕民族であった日本人の宿命かもしれない。>日本人は、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきた。
何事も比較の問題ですね。日本人には、自分自身の基準というものがない。頭の中に基準となる内容 (非現実・考え) がないので、頭の外にある内容 (現実) を見て、それを基準にとって比較する。頭の中の内容は概念であるから基準であっても見ることが出来ない。だが、頭の外の内容を基準にとれば事実であるから見ることが出来る。だから、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきました。
>隣の田んぼより自分の田の稲の実りが悪ければ、どうも恥ずかしいと思い、自分の田が成績がよいと安心する。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあって、日本人には、’上とみるか・下とみるか’ の判断は避けられません。自分の方が上ならば安心し、下であれば恥ずかしく思います。
>かといって、あまりに成績がよすぎても、隣のやっかみを買うのではないかと心配する。>いつも判断の基準が隣なのだ。
そうですね。隣人に対する忖度 (推察) を働かせています。忖度は、本人の勝手な解釈ですから、隣人には責任は有りませんね。日本人には、自主・独立の気風がありません。安全保障もアメリカ頼みか。
>とっくの昔に、日本は農業人口が三パーセント以下になってしまって、日本は農業国ではなくなった。>そのかわりに、世の親たちは、稲ではなく子どもの成績のくらべっこをしているらしい。
我々日本人は、隣人との比較にいつも忙しいですね。
>子どもたちがかわいそうだ。
そうですね。我々のメンタリティ (考え方) の改善が必要ですね。日本語の短所は、非現実の内容を構築できないことですね。だから、学問の体系ができない。
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