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2018年02月22日(木) 

 

 

>私は1989年に改定され、小学校に新たな学習指導要領が実施された1992年に入学し、「ゆとり一期生」と呼ばれる世代に当たります。>特に2008年、ゆとり世代の大卒生が初めて入社するということで、私たちはさまざまなレッテルを貼られました。>「ゆとり教育=悪」の空気に端を発した、荒唐無稽なゆとり批判を経験した私は、いかに日本の教育政策が空気に左右され、支離滅裂であるかを痛感しました。>そして、その支離滅裂な状況は、2020年度から実施される大学入試改革も例外ではありません。>2020年の大学入試改革の目的を簡単にまとめると、「受け身から主体性の教育への転換」といえます。

 

‘受け身から主体性’ とは、日本人にとって難しい目的ですね。

日本人には意思が無い。だから、能動の発想はなく、もっぱら受け身 (受動) の発想になっています。

意思は、未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがないので、未来時制もありません。それで、日本人には意思が無い。

主体性 (自発的能動性) は、意思の表明から始まる。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。表明しなければ、傍観者にとどまる。我が国は、世界の中に在って、世界に属していない。

このようにして考えてみると、意思の問題が我が国の教育の根本にあることが推察されます。

 

>変化の激しい時代に求められる人材は、既存の知識を詰め込んだだけの「学校秀才」ではなく、未知の課題に対して自分の頭で考え行動できる主体性を持った人材だと考えたわけです。

 

生き字引ではなくて、当事者になれる人間の育成が必要ですね。

 

>入試改革を検討するにあたり、特に問題視されたのは大学入試センター試験のマークシートでした。>受け身の姿勢で暗記をすれば攻略できてしまうからです。>そこで、マークシートの試験に加え、記述試験を導入することにしました。>記述試験は単純な暗記だけでは解けないと考えたのでしょう。>知識偏重の入試から、思考力・判断力・表現力・主体性といった、さまざまな能力が必要となる入試を目指したわけです。>従来のマークシート試験に記述試験を加えたセンター試験は、「大学入学共通テスト」と名称を改め、2020年度から段階的に実施される予定となっています。

 

敵は、本能寺にあり。攻める方向が違っているようですね。根本を突いた改革にはならないでしょう。

 

>しかし、これは少し調べれば分かることですが、センター試験の前身である共通一次試験が導入される前から、日本の大学入試は知識偏重だと批判され続けてきました。>後述するように、暗記科目からほど遠いように思われる数学の記述試験でさえ、知識とテクニックを頭に詰め込めば攻略できるのです。>だから、センター試験のマークシートは、日本の大学入試を知識偏重にしている原因ではありません。>いま記述試験を導入するため、膨大な時間と労力をかけているわけですが、なぜここまで記述試験の導入にこだわるのか、率直に言って理解に苦しみます。

 

すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。我が国は言語環境が悪く、正しい文章が作文できない。だから、意思疎通が図れない。人びとは単語 (小言・片言・独り言) を並べただけで、自己の恣意 (私意・我がまま・身勝手) を相手に忖度 (推察) させようとしている。これは、歌詠みの様なものだ。だから、以心伝心を我が民族の宝物のように思い込んでいる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言でない文章の重要性を強調している。

 

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>このような首をかしげざるを得ない現象の原因として、二つのことが考えられます。

>ひとつは教育問題の語られやすさです。>誰もが教育を受け、そして多くの人は誰かを教育したことがあるのですから、皆がこだわりのある教育理念を持っています。>しかも、この教育理念は各人の経験に基づいているので、皆が自信をもって意見を表明できます。>一方、語られやすいがゆえに、今回の改革のようにきちんとした検証を踏まえず、政治家や有識者の思い込みが政策に反映されやすいわけです。

 

生き字引 (経験を積み、よく物事を心得ている人 = walking dictionary) の活用ですね。過去の内容しか出てきませんから、未来の内容を予測するのには十分とはいえませんね。

 

>もうひとつの原因が「社会の空気」です。>山本七平は、著書『空気の研究』で日本は空気に支配されていると看破しましたが、教育政策でも特に空気が強い力を持つようです。

 

ここで言う ‘空気’ とは気分・雰囲気のことで、自分勝手な解釈です。現実とは無縁であり、離れて宙を舞う気分です。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>ここでは、荒唐無稽なゆとり教育批判を簡単に振り返ることで、いかに日本の教育政策が空気に左右されるかを見ていきたいと思います。

 

日本人には、実りある議論は無理ですね。英米流の高等教育を導入することが、我が国の教育政策の岩盤 (支離滅裂) に突破口を拓けることになる可能性があります。

 

 

 

 

 


閲覧数2,127 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/02/22 13:55
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