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2018年03月16日(金) 

 

>行間を読む力は、本当に要るのか? >数年前に実施された経団連の調査で、「学生に身につけて欲しい能力」というものがあります。>問題解決力がその筆頭に挙げられていますが、具体的な能力のひとつとして国語力としての「行間を読む力」があげられています。>つまりは、企業の現場において新入社員たちは「行間が読めない」と感じられていることから出ていることだと思われます。

 

空気を読むとか、行間を読むとか、あたかも勧進帳を読むような真似を学生に期待する経団連のメンバーは、国際貿易時代における時代錯誤ですね。

 

>「行間を読む力」を定義することはとても難しいことです。>ただし「行間が読めない」と言っている状況は、簡単に理解することができます。>情報の送り手である年上の上司からの、言葉が通じないことや言っている内容が通じないことに対して、理解力がないと感じている状況を示すものに他なりません。

 

そうですね。自分が曖昧な言語を使っていながら、無理解を相手のせいにるなど恥ずべきことです。

 

>自分の言っていることがわからないのは、相手の理解力がないからだと決めつけているのです。>何と恥知らずの行為でしょう。

 

そうですね。時代遅れですね。

 

>行間など読まないですむ明晰な文章や言葉で伝えることが求められている今にあって、学生たちに「行間を読む力」を求めるのは見当違いであると言えます。>「行間が読めない」とは、主として送り手の論理の省略を、受け手が補うことが出来ない状態のことだと考えられます。

 

そうですね。忖度 (推察) の能力が十分発揮されていないと不平を言うのですね。

 

>その原因としては、受け手が受取った情報をもとにして行う、論理的な理解力や推論する能力に欠けていることがあげられます。>そして、さらにそれ以前に、求められる基本知識に欠けていることも考えられます。>受け手に求められる基本知識には、一般常識や社会通念はもとより、送り手の持つ大前提などが含まれることになります。>つまりは、空気を読み腹芸や根回しによる日本だけでしか通用しない商慣習のなかで生きることしかできない能力を身につけろと言っているのです。

 

そうですね。世界を相手に商売をしなくてはならない我が国の経済人が、日本だけにしか通用しない商習慣にこだわるのは、国運に係わる陋習ですね。高文脈文化 (high context culture) の社会でしか生きることのできない人間の残念な要求ですね。

 

>対等の関係にあるパートナーとしての行動になじみがない日本の商慣習は、上下(主従)の関係を明確にすることによって成り立っているものです。

 

そうですね。我が国は、横社会ではなくて、縦社会ですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあり、文中で ‘ものの上下’ を言い表す習慣があります。この習慣により、日本人は序列人間となり、序列社会 (縦社会) を作っています。

 

>主の側は多くを語らず、従はあらゆるホスピタリティによって主の求める条件を探り出して対応するものです。>環境によって、主としても従としても振る舞うことを要求され、相手との主従の関係を早くに見つけることが大切になります。

 

環境により、日本人は態度を大きくしたり・小さくしたりしなくてはなりませんね。ものの上下をわきまえていないと、言葉遣いも正しくはならず、礼儀作法も正しい序列作法にはなりませんね。

 

>世界の主要な言語は、ドイツ語や英語を筆頭として言語で表現したことのみを正確な情報として受け取ります。>言語になっていない情報は、漏れているとわかっていても、考慮に入れないことになります。>つまりは言語として表現されていることがすべてであり、行間を読む必要がありません。>これが世界の標準です。

 

世界の標準は、低文脈文化 (low context culture) ということになりますね。

 

>その代り、表現した方が漏らした情報によって仮に不利になろうとも、表現されていない以上そのことについて検討されることはありません。

 

そうですね。

 

>日本人同士の場合は、契約書に書かれていない事柄でも、あるいは契約書の内容に反してでも実際の行動においては再検討や修正されることがたくさんあります。>主従の関係においては、暗黙の裡にすべての内容について主が決定権を持ちます。

 

主が全てにおいて、従の生殺与奪の権を握るわけですね。

 

>従は起きたことや内容についてお伺いを立てることしかできず、主の判断を待たなければなりません。>したがって、より多くの場合を想定したり、内容を確認することは従の役割となり、それを怠ることは自らの首を絞めることにつながります。

 

主の恣意的な判断により、従は今日の世の中に於いても自殺しなくてはならなくなるのですね。リーズン (理性・理由・適当) の存在しない社会においては、リーズナブルな結論は期待できませんね。

 

>この関係は、企業対企業であっても、役所対企業であっても、個人であっても同様に存在し続けているのです。>行間を読むのは、常に従の側であり、主の側は明確な規定をすることで自らの首を絞めることを避けようとするのです。

 

主従の待遇格差により、若者の出世欲が湧きますね。しかし、出世の道には厳しい難関がありますね。

 

>文学や芸術の世界では、行間を読むことは新たな世界を広げてくれることになります。>個人的なものですので、どこまでも行間が広がっていっても何の問題もありません。>行間を読むための前提など存在しなくていいのです。

 

そうですね。芸術という非言語の世界においては、忖度 (推察) は鑑賞者の自由に任せられていますね。

 

>ビジネスにおいては全く異なったことになってしまいます。>行間を読んではいけないのです。>共通の行間の読み方をさせたいのであれば、言語で表現しなければいけないのです。>そうすれば行間ではなくなるのです。

 

そうですね。ビジネスは言語の世界ですからね。言語表現は、きわめて簡単なことですね。

 

>主の側は、あいまいなことを表現して、従の側が行間を読んでくれれば、仮に法に触れるようなことがあったとしても、主の側は責任を回避することができます。

 

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制というものがない。ですから、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。日本人には意思はありませんが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有ります。意思は文章になりますが、恣意は文章になりません。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在します。文章にならないものには意味がないので、主の側は曖昧な表現になります。従の側が忖度により、現実対応をすることになります。この対応が、主の側の責任回避につながります。

 

>主の側は、いつでも責任を回避できるように「行間を読め」と言って、明確な特定できる表現を避けようとします。>そして、思い通りの理解を得られない場合は「行間が読めない」といって否定をするだけで、自らの責任を果たしていないのです。

 

日本の論客は、’ああでもなければこうでもない’ という。’あれではいけない、これではだめだ’ と力説する。しかし、自分はどうであるかを言わない。自分には、考え (文章) というものがないからである。恣意は、バラバラな単語でしか存在しない。これでは、説明責任もとれない。

 

>行間を読む立場にいる日本人は、世界的に通用するビジネスマンですが、行間を読ませる立場にいる日本人は、世界において日本の恥をまき散らしていると言えます。

 

そうですね。経団連のメンバーは、世界の恥さらしですね。

 

>行間を読ませなくても済む、論理と言語による明晰な表現をできることこそ、経団連が求めるべき能力ではないのでしょうか。

 

そうですね。日本人にも、英米流の高等教育が必要ですね。さすれば、我が国にも教養人が出来上がる。

 

>回答をしている側が、行間を読むことによって成り立ってきた以上、次代にもそれを望むのは仕方のないことなのでしょうか。>行間を読ませなければいけないことを、恥と思える環境が早く来てほしいものと思います。

 

そうですね。理不尽な要求に対しては、’恥を知れ!’ (Shame on you!) の一喝で葬り去ることのできる社会にしたいものですね。

 

>文化芸術について、思い切り行間を読んで楽しめる能力を磨きながら・・・

 

そうですね。絵画・彫刻・音楽・和歌などの文化芸術は非言語の活動ですから、忖度 (推察) の自由があますね。思い切り楽しんだら良いでしょう。

 

 

 

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閲覧数489 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/03/16 18:25
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