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2018年04月11日(水) 

 

>「なぜ、志(こころざし)が夢に取って代わられたのかは分かりませんが、夢と志では、イメージに違いが出てきます。」

 

そうですね。

 

>こう語るのは、佐藤一斎(江戸末期の儒学者)の研究者である栗原剛氏である。>佐藤一斎は、著書『言志四録』で有名であり、この書は西郷隆盛の愛読書でもあったという。>少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為すことあり>壮にして学べば、則(すなわ)ち老いて衰えず>老いて学べば、則(すなわ)ち死して朽ちず>『言志四録』」のテーマは、「志(こころざし)」である。> 一斎の教えは、幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。>そして、今なお指導者のバイブルとして愛読する人は絶えない。

 

そうでしょうね。

 

>日本人は「志(こころざし)」に生きていた。

 

そうですね。日本人は、意気と度胸の人生を生きてきましたね。

 

>それが、いつの間に「夢」に変わったのだろう?

 

それは、敗戦を境にして変わったのでしょう。

 

>「志」と「夢」の違いとは?

 

志は恣意、夢は世界観でしょう。

 

>「志(こころざし)」という言葉には、どこか「一直線な鋭さ」を感じる(心を刺す)。

 

そうですね。恣意は、鍛えられて、意地・根性・大和魂になる。皇軍兵士の成り立ちと同じです。夢もなければ、希望もない。

日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものが無いので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、恣意を利用するしかない。

 

>それに対して、「夢」という言葉には、どこか「漠然としたとらえどころのなさ」を感じる。

 

そうですね。夢の内容を語った文章 (1 and 2)について、考えてみましょう。例は、Martin Luther King Jr. の ‘I have a dream’ の speech の一部です。

文章 1. Little black boys and black girls will be able to join hands with little black white boys and white girls as sisters and brothers.

文章 2. かわいい黒人の男の子たちと女の子たちが、かわいい白人に男の子、女の子たちと、兄弟や姉妹として、手をつないだ輪へ一緒に加わることが出来るようになる。

 

1も2も夢の内容です。2 は1 の訳ですが、1は未来時制の内容であります。英米人の夢は考えの内容であり、非現実であります。2は、現実の内容であります。 日本語には、時制 (tense) というものがありません。訳文は、通常同じこと言っていると考えられていますが、2 に対しては、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実は、そのようにはなっていない’ という混ぜ返しが効きます (戯れに、差し出口をして、他人の話を混乱させる)。これで、不毛の議論は終わりを迎えます。英文の夢は自己主張として成り立つが、和文の夢は疑問の余地が多く、空想・妄想に近いのであります。ですから、日本人には自信もなく、自己主張も少ないです。訳文には、文法的限界というものがあることが分かります。

 

>また、「志」が「心の内」にあるように感じるのに対し、「夢」は「自分の外側」にあるような感じがする。

 

同感です。志は、恣意であり、文章になりません。ですから、意味もなければ、矛盾も指摘できません。胸の内・腹の底にたまります。’お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか’ と言う人もいます。

英米人の夢は未来時制の文章内容でありますから、自己の世界観として公言できます。もちろん、そうした世界の情景は、自分の外側に存在しますね。

 

>「どちらが『実現可能』か?」と問われれば、迷いなく「志」だと答えたくなる。

 

‘来たるべき世界’ の実現には、他人の協力が不可欠ですね。志は、公言無用で、孤立無援であるから社会建設に対する協力者も得られないでしょう。

 

>「志(こころざし)」は実に日本的な感覚に近く、「夢」はドリーム(Dream)と言ったほうがシックリくるほどにアメリカ的である。

 

そうですね。アメリカ的な夢を見る人は、ノーベル平和賞クラスの業績になる事もありますね。規模の違いが歴然としますね。

 

>いつから「志」が「夢」に変わったのかは知る由もないが、戦後のアメリカ支配以降と考えても大きな誤解はなさそうだ。

 

そうですね。アメリカ支配は、日本語脳の中にまでは及びませんでしたね。

 

>台湾元総統の李登輝氏は語る。>「戦後の日本人は、アメリカの『骨抜き計画』によって、『日本精神』を失ってしまった。」>「台湾には、今も『日本精神(リップンチェンシン)』という言葉がある。」>「この言葉は、真面目、勤勉、正直、無私などの総称である。」

 

日本人の気性をよく表していますね。李登輝氏は、戦前の教育を受けた人ですね。

 

>李登輝氏によれば、戦後の日本人には、すでにアメリカ精神の卵が産み付けられており、「日本精神」は食い尽くされてしまったというのだ。>改めて「志(こころざし)」という言葉を眺めてみると、なかなかに良い言葉ではないか。

 

志が恣意であっては、広く外国には通じませんね。孤立無援になりがちですね。

 

(略)

>本人がその気になりさえすれば、いつでも息を吹き返してくれるであろう。

 

英語と日本語の文法的差異は、乗り越えられませんね。英語と日本語の二刀流を考えるより外に改善の方法は無いでしょうね。

 

>「日本精神」は、どんな寄生虫にも侵されることのないものだと思いたい。

 

そうですね。日本語脳は変えられませんね。

 

>最後に、「志(こころざし)」の大家、佐藤一斎氏の言葉を。>志あるの士は『利刃』のごとし。百邪も辟易(へきえき)す。>志なきの人は『鈍刃』のごとし。童蒙も侮翫(ぶがん)す。

 

利刀と鈍刀の比較ですか。

 

>「志(こころざし)」をもった人物は、鋭く鍛えられた刃(利刃)のように、あらゆる邪(百邪)を一刀両断しても、なお鋭く、邪なる者は近づくことすらできない。

 

鍛えられた恣意のことですかね。

 

>しかし、「志」がなければ、その刃は一目で切れない刀(鈍刃)であることが分かり、子供(童蒙)にすら馬鹿にされてしまう(侮翫)。

 

ただの私意・我がまま・身勝手のことですかね。そうでしょうね。

 

>「志(こころざし)」には、「公明正大」な響きがあるが、「夢」は、ややもすると、「個人的な欲望」に成り下がりかねないところがあるように思う。 

 

個人的な欲望は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の方にあるのでしょうね。夢の内容は公言できます。公言できる内容は、恣意ではないでしょうね。

 

 

 

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閲覧数564 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/04/11 17:32
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