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2018年04月20日(金) 

 

 

 

>考える力はいらない?

 

種本をあたえられ、暗記力を使って回答する。だから、考える力は、必要なしですね。

 

>ずいぶん前から巷では、思考力やコミュニケーション能力が必要だと言われている。

 

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがないので、日本人には意思が無い。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。

日本人には意思は無いが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。恣意は、単語 (小言・片言・独り言) のままである。恣意は文章にならないので、意味が無い。矛盾も指摘できない。聞き手は、忖度 (推察) により話し手に対応する。赤子に対応するようなものか。忖度は、聞き手の勝手の解釈であるから、話し手には責任が無い。とかく、この世は無責任となる。英米人の恣意は、’恥を知れ’ (Shame on you!) の一言の下に粉砕される。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>企業の国際競争力を上げるには、新しい発想を取り入れ、イノベーションを起こさないといけない。

 

新しい発想を得るには、考える力が必要ですね。

 

>グローバル化が進む世界では、時に衝突もしながら、いろんな国や地域の人たちと一緒に働かなければならない。

 

そうですね。自己の考えを明らかにする発言が必要ですね。

 

>そのために学校では、クリティカル・シンキングやコミュニケーション能力を向上させようと、ディスカッション、グループワークなど様々なことが試みられている。>子どものうちから「自ら考える力」をつけ、異なる立場の人と意思の疎通を図り、協同していく資質を伸ばす。

 

日本人には、意思が無い。恣意は認められない。意思疎通も恣意疎通も不可能ですね。異なる立場の人と、意思疎通を図ることは難しいので、初めから四面楚歌ですね。これは深刻な国難です。

 

>そうやって将来、社会に貢献でき、また自立した人生が送れるようになろう、というわけである。

 

足元がしっかりしていませんとね。希望的観測が強すぎるようですね。

 

>こういう動きを見ていると、考える力は世の中で強く求められ、それを育てようとする動きも活発になっているように見える。

 

‘考える’ とは、’今ある姿’ (現実) を認める事ばかりではなくて、’今はない姿’ (非現実) をも想定することですからね。非現実の三世界 (過去・現在・未来) を文章内容にする時制 (tense) というものが文法に必要です。時制は英語にはあって、日本語にはありません。

 

>しかし自由にものを考え、思考を広げ深めるには、上で述べたように、「何を言ってもいい」ということがきわめて重要である。>ところが実際には、「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。>それは自由にものを考えられる場がないに等しい。

 

自由とは、意思の自由のことでしょう。日本人には、意思が無いから、自由があっても意味が無い。不自由を常と思えば不足なしとなります。

 

>しかもそれは、子どもだけの問題ではない。>大人や社会人、さらには引退した高齢者も同じ問題を抱えている。

 

日本語脳の持ち主は、皆同じ運命にありますね。この道は、いつか来た道。ああそうだよ。

 

>とはいえ学校教育は、社会全体で起きていることの正確な反映であり、その根源でもある。

 

そうですね。社会と学校は、補完関係にありますね。

 

(略)

 

 


閲覧数820 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/04/20 17:13
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