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2018年07月28日(土) 

 

 

 

>■思考を奪う「国体」という病

>國分:それは別の言い方をすると、そもそも日本は戦争に勝とうとしていなかったということになりますか。>去年の夏にNHKがインパール作戦の番組を放映して話題になりましたが、イギリス軍がたとえば兵站(へいたん)でも合理的な作戦を立てて戦争に臨んでいたのに対し、日本軍は精神論で突き進んでいった。

 

精神論は、気分・雰囲気・空気を問題にするのですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>合理的な作戦を立てている軍隊に対して精神論で挑んでも、勝てるはずがない。

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

>これを見るかぎり、日本軍が本気でイギリス軍に勝とうとしていたようには思えない。>日本は最初から戦争に勝とうとしていなかったから、実際に負けたときにも、負けたことに対して何とも思わなかったのではないかという気がします。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思がない人には、責任もない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。日本人には、最初から戦争に勝つ意思はなかったのである。だから、指導者にも戦争責任がない。

 

>白井:負ければ大変なことになる、そして現実に敗色濃厚になりつつある。>それらは自明だったわけですね。>そうなると、もうそんな現実は見たくない、というメンタリティではないでしょうか。

 

そうですね。臭いものには蓋をせよ。犬死させられる兵士は気の毒ですね。

 

>そういう意味では1945年の敗戦以前に「敗戦の否認」をしているのですね。>「国体護持」を唱えながら、国を真剣に守るという思考が停止していたのです。

 

国体護持という人間序列の観念だけは、ついて離れないのですね。

 

>で、敗戦の事実が確定した後にも、それをだらしなく続ける。>だから、関係者たちの責任が放置され、今日でも追及が甘い。

 

意思のない人には、責任もない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

 

>インパール作戦では、作戦を立てた牟田口廉也(むたぐち れんや)の責任は極めて重いわけです。>この点についてはインパール作戦を検証する番組などでも論じられます。

>しかし、牟田口が戦後も何の罰も受けずに天寿を全うしたことはほとんど取り上げられません。

 

日本人には意思がないので、牟田口にも意思がありません。意思のない人間をその行為で罰することはできません。それは、死刑執行人の場合と同じです。

欧米人には、意思がある。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だから、責任者は自己の意思を表明して責任指導をする。日本人には、この行為がない。

 

>彼はあれほどひどい作戦を遂行したのに、畳の上で死んでいるんです。>そのことには全然光を当てない。

 

これは、牟田口が畳の上で死んだかどうかの問題ではありませんね。日本人が、意思の存在を認めたかどうかの問題ですね。意思に焦点が当たらない状態では、残酷物語が起こります。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

これは、江戸時代にあったインパール作戦のようなものか。

 

>これは731部隊もそうですね。731部隊が戦時中にいかにひどいことをやったかについては何度も論じられているので、そのことは広く知られているわけです。

>だから今日では、731部隊の連中が戦後も活躍し、ついには薬害エイズ事件まで引き起こしてしまったということに関心を向けさせるべきです。

 

とかく、この世は無責任。意思のない人たちには、加害者意識もない。罪の意識もない。だから、深刻な反省に陥ることもない。そして、過ちを繰り返します。

 

 

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閲覧数1,052 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/07/28 21:37
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