>私は日本の教育が「覚えろ、従え」に偏重していることが問題であることを指摘した。
これは、問題ですね。
>本来の教育は「考える、発言する」の力を「引き出す」ことにあるはずだが、日本の教育では、生徒が「考えること、発言すること」を逆に封殺することに力が注がれている。
そうですね。現実の内容は一つですからね。唯一の正解を生徒に答えさせるのが教育の目的ですね。
>人とは違う自分の考え方をもち、その考えを堂々と発表するような生徒は、日本の教育においては「問題児」とされる。
そうですね。現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。 非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話であるから、理解することが必要である。 理解を要するような課題は、日本人には荷が重すぎたのでしょう。
>上からの指示、命令に従い、自分の考えはもたず、従って、自分の考えなどは決して表明しない生徒が「優等生」として高く評価されるのである。
そうですね。牛馬のようなものですね。使用者に、都合の良い人間ですね。
>秋嶋氏は著書の設問のなかで、「日本の教育は文科省の役人が策定した「カリキュラム」であって本質的な学問ではない。>もうはっきり「愚民化プログラム」と言っていいでしょう」と指摘する。
学問には理解が必要ですね。愚民には、理解が難しい。
>秋嶋氏はさらにこう述べる。>「運営が極めて兵営的ですよね。>現に『放射能汚染が疑われる給食なんてたべたくない』なんていう口答えを絶対に許さない。>そうやって〈犠牲の分かち合い〉を強制している。>つまり戦時の軍国教育がそのまま今に生きている。>それはすなわち服従と無思考を絶対とする教条です。>国民はそれが身に染み付いているから、改憲にもまったく抵抗しない。>一部のインテリがことの重大性に気付いて騒いでいるだけですからね。」
理想の追求は、抑えられていますね。夢と希望のない国ですね。 ‘戦地にいる兵隊さんのことを考えなさい’ということか。 皇民化教育ですか。洗脳教育ですか。 憲法は金科玉条ではないのですね。
>「僕の学生時代、とくに中学時代なんて収容所みたいなものでした。>たとえば校則を少しでも違反すれば体罰を喰らうんですよ。」
そうでしたね。軍隊式でしたね。
>『泥沼ニッポンの再生』の第9章「教育とメディア・リテラシー」で伊藤真氏は次の指摘を示している。>「富国強兵の下に均一的で画一的な公教育制度が敷かれてから、まだ100年ちょっとしか経っていない。>戦後の教育は大いに反省をして、本来この国にあった多様性に満ちた教育に戻ればよかったと思う。
日本人には意思がない。だから、加害者意識というものがない。罪の意識がないから、深い反省には陥らない。だから、根本的な改革はいつまでたっても行われないでしょうね。 個人の考えは、さまざまである。個人主義を認めなければ、多様性も現れない。
>けれども戦後の工業化社会を推し進めていくための教育という要請が産業界から強くきたこともあって、どうしても多様性に満ちた、そこへの配慮をした本来の教育に戻れなかった。」
現在の日本は、人手不足である。しかし、頭脳不足という話はついぞ聞いたことがない。頭を使わない国には、多様性は現れない。他に追従するばかりでは、新時代は築けない。各人に自己表現を求めましょう。個人の力が世界を動かす時代です。
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