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2018年08月09日(木) 

 

 

 

> ■なぜ「プロジェクトX」は泣けるのか

施光恒(以下、施):国内外で社会心理学的調査を行って比較すると、意識のレベルでは欧米人よりも日本人のほうが個人主義的な傾向が強く出るんです。

 

そうですか。それは面白いことですね。

 

>たとえば「自己犠牲をどのくらい重視するか」「個人は集団のためにどれぐらい貢献すべきか」と直接的に尋ねると、アメリカやカナダと比べても、日本人は個人主義が強い。

 

日本人は、より個人の価値を重んじるのですね。

 

>ただそうした調査を行った社会心理学者がしばしば指摘するのは、頭でよく考えて理知的に判断する意識のレベルと、動機づけや感覚といった半ば無意識のレベルのものから読み取れる傾向性は別だということです。

 

そうでしょうね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>半ば無意識のレベルでは、日本人は社会的関係の中で生きているという実感があるほうが元気が出るようなんですね。>たとえば、個人競技のマラソンよりも仲間と一緒に競技する駅伝のほうが力が出るということです。

 

日本人は、絶えず周りに気配りをしているのでしょうね。

 

>…(中略)…

>一方、明示的な意識のレベルでは近年、そういう関係に対して、「昭和の遺物だ。集団主義だ。遅れていて、捨て去るべきものである」という考えが強い。

 

そうですね。日本人は、無哲学・能天気ですからね。古い殻を破る必要がありますね。

 

>結果として、日本人が頭で考えて改革すればするほど、つまり個人主義的な改革を意識的にやればやるほど、動機づけや感情をかき立てる基盤を壊してしまい、多くの人にとって元気が出なくなってしまうという現象が起きているのではないか。

 

日本人は、言語生活は不向きなのでしょうね。非言語生活により適しているようです。意思の力よりも、恣意の力 (意地・根性・大和魂) に期待しているのでしょうね。

 

>■日本人の現状否定願望

>佐藤健志(以下、佐藤):社会心理調査の事例にしても、「個人主義的な回答をするのが〈正解〉だ」という意識があるのかもしれません。

 

個人個人で、考えの内容は違っていますからね。個人の考えを表すことができれば、それは個性的な回答になります。

 

>人間はしばしば、社会的なタテマエ、ないし自分がそうだと思っているものに合わせて振る舞いますから。

 

個人的な考えが受け入れられない社会では、人々は建て前 (言い訳) を利用して振る舞うことになります。

 

>…(中略)…

>集団主義が好きで、居心地のよさを覚え、ちゃんと結果も出せる。

 

‘赤信号 皆で渡れば 怖くない’ ということですか。

 

>にもかかわらず、その状態を否定しようとする。>ここまで来ると自虐です。

 

民族の伝統からの脱却は、非常に難しいですね。

 

>中野剛志(以下、中野):日本人は現状否定願望、変身願望が異常に強いんじゃないでしょうか。

 

そのようですね。現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。両者の内容は、所在が違うので同じにならない。

日本人は、非現実・考えの内容を文章化できない。それは、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、非現実の世界を文章に表すことができない。だから、日本人の考えでは、現実の内容は ‘本当’ のこと。非現実の内容は ‘嘘’ になる。

英文法には時制があるので、英米人は、非現実・考えの内容を文章にして持っている。考えは個人・個人で異なるので、その発言は個性的になる。考えの世界には、過去・現在・未来の三世界がある。各々の世界の内容は、’時制の一致’  (the sequence of tenses) という文法上の制約があって、同次元で考えることができない仕組みになっている。このようなわけで、英米人は、現実と非現実の内容を併せ持っているので、現状否定願望を異常に強く持つこともない。

 

>…(中略)…

>佐藤:〈居心地の良い状態に安住したり、得意なことに頼ったりしてはいけない〉という思い込みが強いのでしょう。>それらを捨て去るときに感じる抵抗感や苦痛こそ、レベルアップのために乗り越えるべき壁であり、「逃げちゃダメだ、耐えて成長しなければいけない」と言い聞かせることに快感を覚える。

 

行者の荒修行のようなものですかね。

 

>小泉総理が唱えた「痛みを伴う改革」など、その最たるものです。>改革の必要があるとしても、痛みなんて、なしで済ませられるものなら、ないほうがいいに決まっているじゃないですか。

>ところが「痛みを伴う」がつくと、「おっ、これは本物だ」という話になる。

 

日本人には非現実・考えの内容がないので、どんな話も本物には見えませんね。非現実の内容は、日本人にとって、いわゆる ‘きれいごと’ です。汚れがついていれば、いくらか本物に見えるのでしょう。

 

>佐藤:くだんのメンタリティが、民族性といった「先天的」なものか、明治以来、近代化・欧米化を進める過程で学習した「後天的」なものかは、非常に面白いところですね。

 

明治以前も明治以後も、日本人は、猿真似メンタリティでしょうね。

 

>…(中略)…

>つまりは平成に入って、今までにない新しい動きが出てきたというより、近代の日本人に潜んでいた自己否定願望が、バブル崩壊以後の経済的挫折をきっかけとして噴出したのだと見ています。

 

‘あれではいけない、これではだめだ’ ということですか。

 

>施:ただそういう意識の表面だけの改革にも、そろそろ疲れが見えている気がします。2017年にアメリカの調査会社が「世界のビジネスマンのエンゲージメント(仕事への熱意度)調査」を行ったら、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%しかいなくて、世界最下位クラスだったそうです。

 

仕事内容に新鮮味を見つけられないのでしょうね。

 

>佐藤:日本に限らず、社会が円滑に機能するうえでは、人々が暗黙のうちに持っている知恵や約束事、あるいは慣行が重要な役割を果たします。>これこそ文化や伝統の力の中核です。>ところがそれを、非合理的であるとか、定式化・数量化できないとか、果ては欧米(特にアメリカ)で学んできた理論に合わないとかいった理由で、インテリがどんどん切り捨てていった。

 

日本人の精神活動は、以心伝心・不立文字の中にあります。だから、文章内容 (考え) を中心とするアメリカ人とは肌が合いません。

 

>文化的バックグラウンドとは関係なく、誰でもわかるようマニュアル化されたものこそが真理だ、うまくマニュアルにできないものはどうせロクでもないに決まっているから捨ててしまえ、そんな発想で改革を進めたのです。

 

無哲学・能天気の民が真理を求めることは、難しいでしょうね。

 

>合理的・進歩的な行動だと思っていたのでしょうが、結果的に自分の基盤を突き崩すことになって、成果を上げるどころか、何が何やらわからなくなってしまった。

 

そうですね。日本人に文章内容での進歩は期待できませんね。日本人の基盤は、非言語 (nonverbal) にあります。わが国はこの道を通して今日の経済大国になりました。

 

>■「あうんの呼吸」こそ本来の政治だ

>中野:政治の世界でも、自民党の昔の政治などはそれこそ古いスタイルで、あうんの呼吸で、言葉で説明できない関係性の中で決めていくものだった。

 

さうですね。日本人には意思がない。しかし、恣意はある。意思疎通は無理であるが、恣意疎通なら可能です。それが ‘阿吽の呼吸’ になっている。

 

>人間の目利きに長けた老獪な連中が政治をやっていて、その人たちは政治学の理論なんかもちろん知らない。

 

意思は文章になるが、恣意は文章にならない。恣意は、ばらばらな単語 (私意・わがまま・身勝手) のままで存在する。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。恣意には、意味もなければ矛盾もない。

 

>それが古い自民党の政治だった。

 

古い自民党は、我が民族の党だったのですね。

 

>いや、そもそも「政治」とは、理念や理論ではなく、あうんの呼吸でやるべきものなのですよ。

 

理念や理論は、文章内容として表されます。阿吽の呼吸は、ばらばらな単語のままで存在し、意味がない。

 

>それは日本に限った話ではなく、古今東西、そういうものだったのです。

 

古今東西、民主主義ではなかったからですね。当時は、大衆に意味を伝える必要はなかった。

 

>ところが改革を指向する人たちは、そういう本物の政治に対して、「ビジョンが見えない」「理念がない」「不透明だ」「日本でしか通用しない」と言って否定してきた。

 

大衆参加の政治形態には、文章による可視化が必要になりましたね。

 

>彼らは、政治そのものを否定してきたのです。

 

民主主義には、ビジョンの可視化が必要ですね。’民信無く立たず’ です。

 

>佐藤:平成の30年間は、自己否定を系統的にやってきた時代と呼べるでしょう。

 

そうですね。自己の文化に無理解だったのですね。でも、日本人にも個人主義が必要ですね。国際的に通用する個性ある人間を育てましょう。

 

>自己否定に対する日本人のこだわりは、前にも指摘したとおり、今に始まったものではありません。

 

そうですね。昔から日本人は、無哲学・能天気でしたね。’あれではいけない、これではだめだ’ と言っていましたね。

 

>植民地化の不安におびえつつ、近代化をスタートさせた明治の時代にまで(少なくとも)さかのぼることができますが、それが過熱・暴走したのが平成の改革ブームだったわけです。

 

加熱・暴走は危険です。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

 

>…(後略)

>―――――――以上――――――― 

 

 

 

 


閲覧数377 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/08/09 02:29
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