そろそろ自分たちが世を去る時の儀式のことも考えておこうと爺婆が相談。大分近づいてきた。ムダなことはしたくないが、何がムダで何がムダでないか、両者の意見の疎通が必要。
爺婆ともにとっくに現役でなくなっている。爺は週に1日会社に顔を出しているものの、従業員でもなく、命令する相手も、命令してくれる人もいない。婆も10何年前に仕事を辞め、5つ程の遊び(習い事?)グループに属しているだけ。御近所も普通のお付き合いはあるが、格別それぞれの家庭事情に首を突っ込む程ではない。
夫婦ともに死後の世界の存在を信じない。したがって自分の死にあたって葬式位はして欲しい…とか、お墓に入れて欲しい…という希望はない。しかしお墓については、すでに入るべき我が家代々の墓は既にあるので、わざわざ散骨とか樹木葬とか、新方式を選ぶのも面倒。要検討は儀式の形式のみ。
親父の時は、親父が前に務めていた会社の社長、定年後に教壇に立った大学の学長、大学のあった県の知事、私が務めていた会社の社長、弟の務めていた会社の社長などから花輪が届き、親の家はパチンコ屋の開店日のようになってしまって、恥ずかしかった。あれはやりたくない。
必須要件は死亡診断書を得た翌日以後に火葬に付すことだけ。式なんて要るかしら。別にケチろうと思う訳でもないが、ムダな金を遣う位なら孫達に小遣いをやるとかユニセフとか国境なき医師団にでも寄付する方が有用だろう。
戒名はいらないね。父母の時は院居士、院大姉をつけるのに大枚を使ったが、自分たちは仏に弟子入りする積もりもないから残った人たちに格好をつける以外に意味があるとは思えない。現在の名前そのままで問題なし。自分をよく知っている人たちが見てもそれと判らない別名なんて存在価値なし。そもそも自分の両親の戒名を迷い無く書ける人っているかしら。
お経を読んで貰うことも意味があるとは我々には思えない。お経を上げて貰わないと天国に行けない、三途の川が渡れない…なーんて考えは全くない。お経ってむしろ生きている時、特に若い時に読むことに意味がありそう。
しかし、あまり何もするな…と強制すると子供達が肩身が狭い思いをするかな。やりたければやって貰ってもいいが、それで兄弟喧嘩になっても困る。やってもやらなくても、どうせ死人ご本人は知ることはできない。
屍体を火葬するまで家に安置するのも面倒故、病院から運んでくれた葬儀社の場所を借りて置かせてもらい、みんなで食事に出掛けて個人を偲んで通夜の代わりとし、火葬場では簡単な祭壇を儲けてお坊さんに短いお経を上げてもらうか。その方が遺族にとって精神的のも楽だろう。直葬と言うらしいね。
家内は死顔を人に見せて欲しくないそうだ。了解…とは言ってあります。しかし、どうしようと本人には判らない。
参加者はせいぜい10人だね。近くに居る子供達の家族の内、都合の付く者だけでいいよ。北海道の末っ子家族は飛行機代が勿体ないから来なくていいよ。それでおさまらなければ、もし仕事の都合が容易に付くとなら末っ子が一人でだけで来て貰うか。
爺婆の兄弟はもう旅行も億劫になりつつあるから、呼ぶどころか連絡もしない。死後にいきなり一ヶ月ほどまえに死にました…と連絡すると、水くさいとか何とか言う可能性もあるから、来なくていいよ、連絡もしないよ…と生前に連絡しておこう。それではあんまり…と言うかも知れ無いから、無理して死後に来る位なら、むしろ生前にもっと頻繁に顔合わせをやった方がいい思うよ…と提案しよう。死人と顔合わせやっても仕方ないだろう。兄弟だけではなく、御近所その他知人には予め「連絡しないよ」…と根回ししておこう。
友人や御近所知人同窓生達へは爺婆それぞれ生前のお付き合いへの謝辞文をできるなら個人毎に予め作成しておき、49日が過ぎたころに残った方がプリントしてラ配ろう。長生きすると何度か書き直す必要が出て来ますね。それにより、その度にその人への感謝の気持ちが増してくるだろう…、書いた後に喧嘩・争いが起こったりしていなければ。
葬儀の形式で苦労したり、肩身の狭い思いをするのは残った子供達だから、連中にも根回しが要るね。鳩山さんの普天間基地への対処のような下手なことはしたくないしね。
もしどこからか聞きつけて花輪を寄越すのが居ても廃棄が面倒故、受け取り拒否。生花なら参加者で別ける手もあるが…。
……なんだかその時が来るのが楽しみになってきたな。