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2010年06月27日(日) 
   神の不在は数学的、哲学的に証明されている…との文が広告の端に記載されているのにつられて 『なぜ脳は神を作ったのか』苫米地英人(2010.06.15フォレスト出版発行)を購入しました。神が実在するかしないか…なんて議論などあまり意義のあるようには思えないのですが、面白そう…。

   著者が引用する数学者・論理学者クルト・ゲーデルとコンピュータ-科学者グレゴリー・チャイティンの不完全性原理・不確定性原理が何故神の不在の証明になるのか、判りませんでした。チャイティンの不完全性原理を引用した宗教哲学者パトリック・グリムは神(完全なるもの)の存在には言及したが、必ずしも一般的な神の存在を否定した訳でもなさそうです(私の解釈)。

   『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎(講談社現代新書)によれば、

すべての真理を知る「神」は、もちろん自然数論も知っているはずであり、無矛盾でもある。ところが、不完全性定理により、ゲーデル命題に相当する特定の多項方程式については、矛盾を犯すことなく、その真理を決定できないことになる。したがって、すべての真理を知る「神」は、存在しないことになる。

……のだそうです。

   完全に理解することは私には困難ですが、「神」及び「存在」の定義によると思われます。論理に矛盾があるようにも思えます。面白そうなのでもう少し掘り下げてみようかしら。

   私は来世や神の存在を信じてはいません。しかしそれらを信じている人々に、そんなものは存在しないよ…と説得する意思はありません。信じないよりは信じる方が幸福だろう…と推定しており、人を不幸に陥れることは不本意だし、説得できる私なりの論理付けがある訳ではない。苫米地氏の本によりその理論が納得できるかも…と思いましたがムダでした。 お遊びは取りあえず失敗。もう少し調べてみる積もりです。

   ただ苫米地氏の著作の目的は神の不在論ではなく、幸福になるためには神や宗教,他人の価値観その他の束縛から離れて自由になれ!ということにようですが…。そちらは私の関心外。

閲覧数1,477 カテゴリ日記 コメント6 投稿日時2010/06/27 01:13
公開範囲外部公開
コメント(6)
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  • 2010/06/27 08:15
    korochanさん
    関心外でしたか。

    苫米地氏の目的と、コッチさんの目的不適合でしたね。
    私は、哲学めいたことに結構、関心があります。

    「なぜ脳は神を作ったのか」
    ・・・「脳は神を創る必要があったのか」、仏教でいう、いわゆる
    「仏様」・・・山の神、地の神の必要性も同じですよね。

    そして、尚且つ、「他の束縛から離れて自由になれ!」とおしゃってますか。
    では、自分を信じて、「自分を神と崇めて」、生きてゆけ!と解釈させて頂いたら、宜しいのですかね。

    神は実在するか否かの論議はコッチさんに、お任せいたしときます。




    次項有
  • 2010/06/28 09:22
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

    お早うございます。私がここで「おはようございます」と云えることは滅多にないのですが……….


    >自分を信じて、「自分を神と崇めて」、生きてゆけ!

    他人の自分に対する評価など気にしないで、自分の心の奥底をよく覗いて、自分で自分を評価せよ!ということだと思います。神は存在しないから、自分も神ではないわけです。

    オリンピックで金メダルを取ることが本当に自分の希望なのか、人の価値判断に従って評価し、それで喜んでいるだけではないのか…という具合です。メダルを取って何の役にたつのかよく考えろ! と云っているようです。

    この議論は頭の体操にはなりそうですし、人が神を引き出して私の意見に反対した時に、神の不在を主張してやっつけて溜飲を下げることは出来そうですが、それ以外の役に立ちそうにも思えないのですがね。
    次項有
  • 2010/06/28 21:50
    korochanさん
    コッチさん

    こんばんは
    「自分を神と崇めて」は言い過ぎましたね。
    自分の心に従えです。もちろん神は居ない訳ですから、自分も神ではありません。

    でも、金メダルの話はちょっと違うような・・・
    金メダルを目指すとか、採りたいかとは、本人、もしくは、支えてる人の意思だと思います。
    そして、どう評価されて、メダル獲得なるかは、他者の判断です。
    そして、メダルを採って、どういう風に役に立つか、金字塔になるかは、本人ではなく、その時代次第というか運命だと思います。

    そんなこと言ったら、自己矛盾だらけです。
    神や仏を信じないと言いながら、神社仏閣巡りしながら、お参りしてる自分がいるし、お葬式のお経を上げてるし、
    子供はキリスト教の幼稚園に行ったので、日曜教会に通ったし
    バラバラです。

    だから、「我思うが故に我あり」の心境です。
    次項有
  • 2010/06/28 22:49
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

    今日はこんばんは…です。

    金メダルは私もほしいと思ったことがないので、この点については苫米地氏の意見はすぐに理解できました。

    国によっては金メダルを取れば一生の食い扶持をくれるそうですから、これは嬉しいでしょうね、メダルではなくお金を貰うことが。

    やりたいこともやらずにただ一筋にメダルを目指して歯を食いしばる、周囲の人々が賞賛し、褒め讃えてくれるから自分もその気になったのであって、本当に自分でも嬉しいのか。他のやりたいことを棒に振って悔いはないのか。

    友人や親戚が喜んでくれるから嬉しい?社会奉仕をやった訳だ。自分を犠牲にして人々に元気を与えたわけだ。

    自分が好きなことをやっていたらメダルが取れちゃった…のなら云うことはありませんが。

    人の順位付けなんてどうにでもなります。水着が基準に合うとか合わないとか、棒高跳びの棒の弾力性がどうとかこうとかで、順位など簡単に入れ替わります。

    私が一位になるように規制したスポーツなど、簡単に作れると思いますよ、誰もやる人はいないでしょうが。私もやろうとか思いません。順位なんていい加減なものです。それでメダルを貰っても嬉しくも何ともない。メダルが高く売れるなら少しはうれしいでしょうが、オリンピック委員会からクレームが付くでしょうね。


    矛盾? 人間なんて元来矛盾だらけです。私も我が家に仏壇は置いてあり、家の墓地も作ってあります。親の三十三回忌もお寺で済ませました。

    宗教音楽は大好きですし、教会の雰囲気も好きです。信心深い人もいいなあ…と思っています。

    それでいいのではありません?

    次項有
  • 2010/06/29 17:34
    korochanさん
    コッチさん

    矛盾の件は了解です。

    ただ、金メダルの事はやはり、ちょっと違うような。

    以前は、日本を背負ってとか、日本のためにとか、そんなイメージもありましたが、どこかな、高橋尚子位かな、皆、自分の喜び、楽しみのために、頑張るようになったでしょう。
    「楽しく走れた」とか、「楽しんで~」とかいう発言が多くなったでしょう。
    自分の意思、希望、夢、また同時に自分を支えてくれる「チーム~」の意思だったりは、しますが、誰も嫌々やってる訳ではない。
    あくまでも、意思を持って闘ってると思うのですが・・・

    金メダルは結果であって、目的のすべてではない。
    あくまでも、そこに到るまでの過程が大事だと思いますが。

    そんな気持ちで、私は、高橋大輔や真央ちゃんを応援してますが・・・
    次項有
  • 2010/06/30 00:39
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

    反論大歓迎です。

    勿論、メダルを取ることそのものを喜びや楽しみにしている人は居ると思います。

    但し、そう云っている人が全部、本当に心の底からそう思っているのかどうかが問題です。周囲の人が賞賛してくれたり、種々の名誉が得られるので、メダル獲得そものを喜びである…と勘違いしている人も結構居るのではないか…と思います。すなわち、人の評価尺度を自分の尺度だ…と思い込んでいる訳です。

    チームの意思は自分の意思とは云えないと思います。ただ引きずられて自分の喜びとしているだけです。

    特に付和雷同型の多い日本人では人の評価尺度を取り込むケースが多いだろうと推測します。それが悪い…とは思いませんが、それで充実した人生だったと後で思えればいいのですが…。

    もし、子供や孫がメダルを目指して、がんばっている時、(幸いにもこれまでの所はいませんが)、メダルを取ることとその為に犠牲にしているいくつものこととどちらが大事がよく考えろ…と忠告したいです。

    老人になってから、あの時にあんなに頑張らないで、我慢してやらなかったことをやっておいた方がよかったな…と後悔して欲しくないからです。

    メダルを取るために恋人と別れた…なんて話しは小説にしかないのかも知れませんが、本当に大事なものを取り逃がしていなければいいのですが…。

    例えば走ることは楽しくて大好きだが、何かを犠牲にしてまで走りでメダルを取りたいとは思わない、自分はもっといろんなことを経験したい…と思ったらそちらを目指すべきです。

    取っちゃってから、一番なんていろんな前提条件でそうなっただけで、少し条件が違ったら、取れなかった可能性も結構大きいよ…と喜びを潰すような発言をする積もりはありませんが。

    自分が本当は何をしたいのか、それを探すことは難しいことです。後で後悔することのないように、始める前によく考えるべきだと思います。



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