長い文章を読むのが苦手ですがこの日記は一気に①から③まで読ませて頂きました。
アップして頂いてありがとうございました。
「…いらっしゃると思っておりました」 質屋の女は、あいかわらずの姿で、そこにいた。 私は彼女の顔を見るやいなや、思いの丈を叫んだ。 「娘を…。娘を幸せにしてやりたい…! たとえ30才までだって、構わない…! 好きな男と結婚し、幸せに過ごす。 最後にそれくらい、味わう時間を、作ってやりたいんだ…!」 私は、娘に妻の姿を重ねていた。 同じ病気のせいで、妻は娘を産んで、すぐに死んだ。 私はおそらく、妻を幸せにしてやれなかった。 だからこそ、せめて娘を幸せにしてやりたい。 そのことに、今気がついたのだ。 女はそれを聞き、静かにうなずいた。 「それでは…」 「あと二つ。最大まで質入れさせてほしい」 結婚をするのなら、生活の心配はないだろう。 たとえ私がどうなろうとも、娘そのものは生きていくことはできるはずだ。 「承りました。視覚、聴覚、触覚のうち、どの感覚を質入れ…。いえ…」 女は息を吸い、言い直した。 「どの感覚を、残されますか?」 答えは、決まっていた。 「視覚、聴覚、触覚。どの感覚を、残しますか?」 女は、もう一度聞いてきた。 この質問を、今までに心の中で、何度繰り返してきただろう。 目か。耳か。肌か。 私が唯一残せるとするなら、どれにするのだろうか。 毎晩、そのことばかり考えてきた。 そして今、その答えを決めなければいけない。 私は、心を決めていた。 「………で、頼む」 「………承りました。後悔はなさいませんね?」 「あぁ…。しない」 「承りました。では、そのかわり。お客様の望む方の寿命を、10年延ばさせていただきます」 「あぁ…。頼む…」 私は静かに返事をした。 「それではお客様は、今から、残りの二つの感覚を失います」 「…あぁ…。好きにしたらいい」 「ただ、です。実際にこの商売を長く続けておりますが…。 4つの感覚ともに質入れできる方は、なかなか少ないものです。なぜなら感覚を失っていくことは、寿命を削られることより、ずっとずっと苦しいものだからです」 「………」 それはもう、今までで十分に理解した。 「いいから早く…」 「いえ、すなわちお客様のような方は、当店にとって、大のお得意様。 ですのでサービスとしまして、もし失礼でなければ、この後のお客様の生活は、当社が面倒を見させていただきます。 大切なお得意様の、ほとんどの感覚を奪ってそのまま放り出して、あとは知りません…では、当社の評判にも関わりますので」 私は、考えた。 嗅覚や味覚と違い、他の感覚がなくなれば、もちろん娘には隠し通すことはできないだろう。 そこで苦しむ姿を、娘には見せたくない。 いやそれ以前に、私の存在が、彼女の人生において、重荷になる可能性だってある。 娘には、何も心配をしないで、生きていってほしい。 今の私には、それだけが一番の願いだ。 「どうされますか?」 「………」 私はしばらく考え、絞り出すように、こう言った。 「頼む」 その言葉に、女は静かに微笑みながら言った。 「承りました」 ◆ あれから、何年の月日が過ぎただろう。 私は、たった一つだけの感覚を持ちながら、いまだに生きている。 今、私がいる場所は、質屋が用意してくれた施設だ。 詳しくは知らないし、知りたいとも思わない。 たまに誰かが来て、食事をくれる。 ただそれを、栄養のためだけに食べ、生きているだけだ。 でも、後悔はしていない。 娘の病気は治っただろうか。 もしくは結局、治ることはなかったのだろうか。 それだけが気になった。 しかしたとえ短い間といえども、娘が幸せな生活を送れたかもしれない…。 そう思うことが、何よりの自分の安らぎだった。 ◆ 私は、この施設に来る直前に、質屋で女とかわした会話を思い出した。 「聞かれませんでしたので、あえて申し上げませんでしたが…。 五感を、再び『買い戻す』ことが可能です」 「買い戻す…?」 「そうでございます。感覚のかわりに、寿命を差し上げたわけですから…。逆はすなわち」 「寿命を延ばした人間の寿命によって、感覚が戻る…と?」 「その通りです。その場合、一つの感覚につき、20年が必要です」 「20年? 5年じゃないのか?」 「それはもちろん、利子や手数料もコミコミでございますので」 「………」 「すなわち今回であれば、お客さまの愛娘さまが、『お父さまの感覚ために、20年ずつ寿命をなくしてもいい』とお考えになったら、感覚が戻るわけです」 「………」 もし。 もし、娘の治療が成功したのなら。 娘の寿命は、さらに先まで延びるだろう。 そのとき、女は娘に、すべてのことを教えてくれると言った。 そしてその上で、娘が私に寿命を返してくれるというのなら…。 私は感覚を取り戻すことができるだろう。 その場合、娘を私の元に、連れてきてくれるという。 でも。 すべてが単なる可能性に過ぎない。 もし、私の感覚が今後もずっと戻らなかったのなら…。 それは、治療が間に合わなかったか、もしくは娘が寿命の受け渡しを拒否したか、ということになるだろう。 だったら、後者であることを願わずにはいられない。 私は、今の自分に、満足していた。 感覚が一つしかないということは、とてもつらいことだ。 でも。 この感覚一つだけが残っていれば、不思議と安らぎはあった。 さびしさは、もちろんある。 でも、今までの幸せな記憶が、この感覚と共に残っている。 だから、大丈夫だ。 そのときだった。 手が、触れた。 私の手を、ぎゅっと握りこむ感触。 女性の手の肌ざわりだった。 まさか。 その気持ちは、すぐに確信に変わった。 娘の、手だ。 間違いない。 「………!」 私には、分かる。 手に触れるぬくもりは、娘のものだ。 体に触れるあたたかさは、娘のものだ。 次の瞬間、私の胸に、その女性が飛び込んできた感触があった。 あたたかかった。 ◆ 私は、視覚か聴覚か触覚か迷っていた。 最後に決めた理由は、「どの感覚で、自分がもっとも幸せを感じたか」だった。その感覚を失うことで、その幸せまで失ってしまうような気がしたのだ。 それが、「触覚」だった。 目だけが見えても。 声だけが聞こえても。 触れた感覚がないなら、テレビと同じだ。 そこにいる存在感が、何も感じられない。 しかし、逆に。 体温や触覚が感じられるなら。 何も見えなくても、何も聞こえなくても。 相手の存在を、何より感じることができる。 幼いころに抱かれた母親の感触。 はじめて触れた、妻のぬくもり。 生まれたばかりの娘を抱きしめた温かさ。 その記憶があったからこそ、私は幸せを忘れないまま、生きてこられた。 腕に、涙と思われるしずくを感じた。 肩に、嗚咽の呼吸を感じた。 私は今、確かに娘と、ここに存在している。 そう。 ぬくもりさえあれば、人は生きていけるのだ。 娘は私の手に、字を書いた。 「ありがとうと何度言っても足りません。お父さんからもらった命です。 お父さんの感覚を、私の寿命で、戻して下さい。」 私はそれにたいして、静かに首を振った。 もう、十分だ。 お前はこの感覚を、できる限り生きて、大切な人に伝えてあげなさい。 娘が、さらに泣く感覚が伝わってきた。 そして、直後。 私の腕に、娘よりも小さな手が触れた。 |