すべては、現世の人の為の儀式だと思います。
気持ちの拠り所?
ご先祖様を敬う気持ちは大切だけど、儀式でがんじがらめにしたり、
インチキな商売にしたり・・・これも現世の人間の行いだったりで。
ほんとうのところは・・・わかっているけれど
そうすることや、想うことで気持ちが納得するのでしょうね。
8月に書いたままアップしないで忘れていたメモが出て来ました。 天に還った魂が家族のもとに帰ってくるのがお盆。まずはお墓にお帰りになる。 ということは平素は仏壇やお墓はお留守なのですね。それでもお供えをやったり、お線香をあげたりした方がいいのかしら。 迎え火とはお墓に帰ってきた先祖を、自宅に迎えるための目印としてお墓から家まで灯すものだそうな。送り火はその逆。 私のお墓と家は300キロほど離れており、途中に迎え火を置いていないが、迷わないかしら。私の見る限り、迎え火は家の前でしか灯されていないようだから、お墓を飛ばして家に直行されるのかな。 認知症となり、自分の子供も判らなくなり、施設で亡くなった人が自分の墓や家がどこでにあったのか、そこら中に灯された迎え火の内、どれが自分用の迎え火なのか判断できるのでしょうかね。家にお帰りになる目的は?もう憶えていない家族に会うため? 認知症なんて、現(うつつ)の世において仮に宿った人体での問題であって、魂には認知症はない? しかし、五感・神経(記憶手段)を持たない魂には物事を認知する能力はあるのかしら。魂同士の触れ合いで全てが判るのかしら。 家にお帰りになるのはいつまでなのでしょう。会ったこともない子孫の元に。33年か50年経つともうお帰りにならない? 神と一体化され、個別化の状態ではなくなる? 永代供養供養という制度がある。之個別はの魂の供養ではない? 日本の伝統行事として後世に伝えていくことに、私には何の異論もありません。美しくしくゆかしいイベントに思えます。しかし、全てを理屈で結びつけるのは難しそうですね。 多分、いろんな習慣の寄せ集めだろうから、全体を通して一つの論理で説明は難しいだろうし、必要でもないでしょうが。 |