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宇治市民絵画苑の「市民絵画展の講評(松田先生の分)」
「市民絵画展の講評(松田先生の分)」の書込一覧です。
市民絵画展の講評(松田先生の分)
【閲覧数】971
2008年12月13日 16:53
 松田先生の講評をいただいたので掲載します。
 松田先生は新美で指導されています。
 知り合いの四季彩伊佐さんに騙されて、長文の講評文をいただけました。ありがとうございます。

書き込み数は6件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
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2008年12月13日 17:10
121 吉田一時「遠くからの汽笛」油彩10号 への松田先生の講評


 ミロのビーナスをじっと見ていると男性的にも女性的にも見える。またギリシャのゴツゴツした島国のようでもあり、地中海の波のようでもある。モナリザも黒い喪服(死)を着ているようでもあり、妊娠(生)しているようでもある。優れたものは単純でなく奥が深い。
 この絵にはその深さがある。
 大きく力強い水道と遠く小さな電車。
 水道の直線と曲線、地平線は低く大空が夢の様にひろがる。しかし水道の上部の水平線は高く現実的に迫ってくる。
 相対する要素を巧みに統一させ表現し、見事である。
 遠く静かに汽笛が聞こえてくる。汽笛は画面のリアリティーを更に高めている。

Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
【返信元】 市民絵画展の講評(松田先生の分)
2008年12月13日 17:06
 92 服部政夫「早春の湖北」水彩20号 への松田先生の講評


 もともと西洋では、このような絵を“Landscape Painting(自然画)”と言った。これを誰かが風景画と訳して日本に紹介した。私はこの人をとてもユニークだと思う。きっとただ自然を眺め、そっくりに描くだけではだめ、温度・湿度があり、動く風の表現こそ大切と考え訳したのだと思う。
 「早春の湖北」この絵は、早春の岸辺を見事に表現している。活動してきた長い夏も終わり秋となり葉を大地に戻し、肩の荷を降ろし、ほっとして直線的に大空に伸びていた枝は、今、早春、再びくる夏に備え、水分を、養分を、湖から大地から吸い上げ、少し重く曲線的に春風の中、明ける天に向かい伸びている。
 作者の自然に対する深い思い、優しい愛、みずみずしい感性、それを色と形で表現し見事である。

Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
【返信元】 市民絵画展の講評(松田先生の分)
2008年12月13日 17:05
 81a 辻 靖子「微風」 への松田先生の講評


 足踏みシンガーミシンの前で一休みする女性を見事に表現している。画面に大きさ・広さがあり素晴らしい。
 人物のプロポーション、立体感、胸・額にあてた手・肘と膝に囲まれた空間も良い。
 ブラッシ(筆)も長く短く、右に左へと画面を自由に走り、いきいきしている。色も反対色をとりいれ、深みがあり美しい。
 惜しいのは、絵の三要素(色・形・構図)構図で、画面が左下に流れ、せっかくの一休み感は台無し、何となく落ち着きのない画面となっている。もう少し画面に左と下が欲しかった。画面にモデルを入れる時、どこまで入れるかよく考えて見る必要がある。

Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
【返信元】 市民絵画展の講評(松田先生の分)
2008年12月13日 17:03
 58 重富妙子「晩秋」パステル20号 への松田先生の講評


 晩秋、一年の中でこれほど充実する時はない、全てのものが、身をふるわせ、充実した一年に感謝している。
 それを、この絵は、見事に表現している。
 特に地平線を思い切って高くし、成功させている。地平線を高くしたため、全てのものがぐっと私たちに迫ってきている。
 そして、根気よく無数の芒を描き、それに風を送り揺れ動かせている。オーケストラを聴いているかのように心地よい。
 この絵は生きている、空を映す光る水面も美しい、遠くの山、遠くの家の表現も見事である。
Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
【返信元】 市民絵画展の講評(松田先生の分)
2008年12月13日 16:59
 33a 亀苔恭子「忍野村冬の朝」油彩15号への松田先生の講評

 富士山の写生となると、気楽に近くの丘を描きに出かけるような訳にはいかず、特に冬の富士となると防寒服に身をかため「やるぞ」と強く言い聞かせ、家から第一歩を、しっかり踏み出す必要がある。この「忍野村・冬の朝」から作者のこの強い決意が伝わってきて嬉しい。
 だがこの絵はそれだけではない。
 北斎は富岳三十六景を描き、今も世界の人に親しまれているが、北斎の富士をよく見ると、稜線がギザギザになっている。北斎は一歩一歩登った時の凸凹の山肌を大切に表現し、それまでの崇高な神の山を身近な人々の富士へと変えた。
 この絵も、左右の凸凹に並ぶ樹々、暖かみのある山肌、リズム感のある枯れ草によって、画面は強さばかりでなく、優しさをもち、さらに静と動、寒と暖、理想と現実などのある内容豊かな素晴らしい絵となっている。

※作品画像ちょっと遅れています。お待ち下さい。
Re: 市民絵画展の講評(松田先生の分)
【返信元】 市民絵画展の講評(松田先生の分)
2008年12月13日 16:56
 19 内田ふさ子「漁村の路地(沖ノ島)」洋画50号の松田先生の講評

 「たらたらしている人達の薬代をなんで私が払わなあかん」、こういうことを言った宰相が、今まで世界にいただろうか。リストラで職を奪われ、社宅を追い出され苦しみ悲しんでいる人達、その人達を治める宰相がこの有様、だからホームレスを襲い殺す人達まで出てきている。
 陽の当たる場所も大切だが、陽の当たらぬ場所はもっと大切、どこにでもある漁村の路地の一角、その日陰に置いてある何でもない一台の自転車を、このように心こめて表現するこの人、この絵から学ぶことは多い。自転車ばかりではない、全ての物が大切に表現されている、特に手前右下の緑の網の表現は素晴らしい。
 しかし一つ問題がある。画面右のトタン屋根である。これは描いたのではなく貼ってある。このような方法を“パピエ・コレ”と言い立体派ピカソ達が始めた。ピカソはその物自体のフォルム、色の美しさを表現しようとして使ってはいるが、何かの身代わりとしては使っていない。絵は絵の具で表さねばならない決まりはなく自由である。だからといって何を使っても自由となるのだろうか。“犬”は右上に点を打つから“犬”で、下に打つと“太”となる。人間が受け継いできた文化には守らねばならぬ決まりがあるのでは無いだろうか。
 この絵は私達に大切な問題を投げかけている。