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Re: 今なら言える話
【返信元】 今なら言える話
2013年05月17日 23:49
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今だから言える「つらくて懐かしい」話です。
(何せ45年も前のことであり、書いた後に思い出すことが多く、修正を加えるうちに収拾不能となったので、ワープロで仕上げたら長くなってしまいました。) 昭和43年当時の城南高校では、入学当初は全員何らかのクラブに入らなければならず、そのため1学期の早い時期に授業を休みにしてクラブ選定のための時間を設けていました。新入生は当日、自分がこれと思うクラブの部室なり教室を見学し、最終的に入部するクラブを決めることになっていました。 当日、希望するクラブもない私とその仲間、H.Nn.、S.I.、H.Nk.、K.N.の5人は、ウロウロ校舎の中を行ったり来たり。なかなか決められず、そうするうちに、誰かが「合唱部は女の子が多いからチョット冷やかしに覗いてみよう」と言い出し、音楽室に入って行ったのです。残りの者も仕方なく後ろから入って行くと、そこは、さながら蟻地獄でした。 中に入ると、女子生徒に紛れていた数人の上級生男子が振り向き、貴重な男子生徒が来たとばかりに我ら5人を取り囲んだのです。いつも男だけでたむろする我ら5人からすれば、女の子とお歌のお稽古をしているような野郎がいるとは想像できなかったので、ちょっと面食らいました。5人はすぐにテーブルの前に座らされ、入部届用紙と鉛筆を渡されました。そして「これに名前を書いてください」と言われました。いやいやいや、ここはまず練習の見学でしょ!「入部しますか?」とか訊くべきでしょ!・・・しかし、彼らは「男子部員ゲット!」とガッツポーズをせんばかりの表情。我ら5人にとって、お歌のお稽古をするような男なんて、振り切ってその場から立ち去るのは容易と思われました。が、一人だけ、お上品な合唱部には明らかに似つかわしくない、ガタイがデカく長髪でうっすらと無精ひげを生やした、合唱部というより応援団が似合う、まるで野人のような上級生がいたのです。他の上級生とは異なり、その野人だけは、胸の前で右手の拳を左の手のひらに打ち当ててバシバシ音を立て、入部届用紙を指さして有無を言わせず「さあ名前書け」とドスのきいた声で迫るのです。「検討させてもらいます」なんて言える空気ではなかった。5人は「どうする?」とひそひそ。「名前を書いてとにかくここを出よう。歌の練習なんかサボったら済むこっちゃ。」ということになり、みんな名前を書いて這這の体で音楽室から出てきました。しかし、悲劇はこれで終わらなかったのでした。 数日後、総体か何かの壮行会が開かれることになり、生徒は全員、中庭に集合となりました。そして、校歌か何かを歌うために、「合唱部は全員前へ」とアナウンスされました。我ら5人は、新入部員は上手くないしィ、先輩の足を引っぱったら悪いしィ…と、いろいろ言い訳を考えながら、肩をすぼめて下を向いて石になっていました。ところが、「合唱部の新入部員も前へ」と更なるアナウンス。我ら5人は合唱部に入るつもりは更々ないので、更に肩をすぼめて更に硬い石になっていました。すると、あの野人がマイクに向かって「合唱部1年男子、出てこんかい!出てこんと一人づつ名前呼ぶぞ!」と赤鬼のような形相。仕方なく5人は前に。おずおずと5人が前に出てくると、東宇治中出身の男子同級生たちに「あいつら合唱部?!似合わねぇ~。」といじられ、その後もしばらくの間、「柄にもなく」とからかわれる羽目に。 部活が本格的に始まると、野人の監視のもと、練習をサボれるはずもなく、週に何日かは重い足取りで放課後の音楽室に通いました。そして、夏休みの初めに「京都合唱祭」なるものが開かれることを知らされ、これに向けて部員全員一致団結して練習に励もうという気運のなか、5人は憂鬱な表情でこの先の高校生活に不安を感じていました。その後、京都合唱祭に向けて更に練習日が増やされ、どんどん奈落の底に落ちていきました。 ところが、嫌々でも同じ曲を繰り返し練習すると、そこそこ様になってくるものです。そして、自分でも内心まんざらでもないと思うようになっていきました。ちなみに、私とH.Nn.はテノール、S.I.、H.Nk.、K.N.はバス、野人もバスでした。そして、夏休みに入り、ついに合唱祭の日。普段履くことのないピッカピカの革靴を履き、緊張した面持ちで京都会館の舞台に立ったのです。全曲歌い終わった後、審査員は、「まず、絶賛を博したいと思います(会場:大拍手)」と評されたのを覚えています。女子上級生のなかには感激で涙する人もいました。けれど、5人は(少なくとも私は)、「絶賛」の感動よりも、やっと解放されるという安堵感の方が正直強かったです。 京都合唱祭で何の曲を歌ったのか思い出せないので、断片的に覚えている歌詞を頼りに検索してみると、下記の4曲に辿り着きました。初めの3曲は、合唱組曲「千曲川の水上を恋ふる歌」の一部です。これらの曲を聴くと、今でも歌えそうなくらいにハッキリ記憶が甦ってきます。あんなに嫌だったのに懐かしい感情が湧くのは不思議です。何度も何度も繰り返して聴いてしまいました。 「水上」http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailp…DGYSg#t=6s ![]() http://momo1949.hobby-web.net/mm/mu_title/chikumaga…i_wma.html ![]() 「若き日」http://www.youtube.com/watch?v=CcAVawDGYSg&feat…age#t=110s ![]() http://momo1949.hobby-web.net/mm/mu_title/chikumaga…i_wma.html ![]() 「牧歌を偲ぶ」http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailp…YSg#t=287s ![]() http://momo1949.hobby-web.net/mm/mu_title/chikumaga…u_wma.html ![]() 「子供と笛」 http://www.youtube.com/watch?v=JrVNFIUVQAw ![]() 合唱祭の後、練習は2学期まで休みとなりました。そして2学期が近づくにつれて、だんだんまた憂鬱な気分になっていきました。しかし落ち込んでばかりではいられないので、5人のうち4人は、野人に屈することなく退部することを決意していました。ところが、2学期になると先輩方は、引退したのか記憶は定かではありませんが、部活には参加せず、4人はすんなり退部することができました。ただ一人、K.N.君だけは、合唱というものにハマってしまったのか、合唱部を続けていました。卒業アルバムの合唱部の写真に、男子生徒として彼が一人だけ写っているのはそのためです。 その後、男子4人が抜けた合唱部は混声合唱団の体を成さなくなるので、我ら4人は女子部員から戻ってきてほしいと言い寄られました。野人とは違って女子部員に言い寄られるのはまんざらでもなく、鼻の下を伸ばしそうになりましたが、やはり柄にもないので戻ることはありませんでした。そして、合唱部は女声合唱団となってしまいました。こうなったことについては、女子部員の方々には誠に申し訳なかったと思っていますし、冷やかしで覗きに行った我ら4人は責められるべきかも知れません。しかし、上記の経緯から、下級生としての弱い立場も理解していただけたと思います。さらに、京都会館の舞台に立ったことをその償いとして受け入れていただき、女子部員の方々には、平にご容赦くださいませ m(_ _)m。 ちなみに、城南高校同窓会のホームページの「クラブ活動・活躍記録」によれば、城南高校合唱部は、昭和40年京都合唱コンクール2位、昭和41年京都合唱コンクール1位という輝かしい成績を誇るクラブでした。また、京都合唱祭で上記の審査員を務められたのは、昭和42年まで城南高校で教鞭を執られ合唱部を創設された伊吹新一という京都の音楽教育に多大な貢献をされた先生だそうです。また、同ホームページから「城南高校混声合唱団卒業生の会・爽声会」というのが今も存続していることを知りました。そんな熱心な方々の集団とは知らず、冷やかしから入部してしまった我ら4人をお許しくださいませ m(_ _)m。 最後に、お名前が思い出せないのですが、上記で野人という扱いをしてしまってごめんなさい。この先輩は、本当は合唱を愛し、合唱に対してまじめに取り組む熱心なお方でありました。また、N部長、T先輩、野人先輩、その他諸先輩方、読譜もおぼつかない我々をご指導いただき、ありがとうございました m(_ _)m。おかげさまで、カラオケに行った際には、「元合唱部」などと称して本格派ぶったりなんかしています。 登場人物として思い当たる方、元合唱部の同級生や先輩など、是非とも当時の思い出などを書き込んでください。私の記憶違いや補足があれば、それもお寄せください。 |
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