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山城・今日この頃 記事アップ用の「平重衡の供養塔」
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平重衡の供養塔
【閲覧数】816
2021年09月01日 08:24
木津川市木津の「安福寺」に重衡を供養する「十三重塔」がある。また周辺には「不成柿(ならずのかき)」「首洗池」の言伝えが残る。

重衡は清盛の五男として保元元年(1156)に生まれ、平氏の公達として昇進を重ね23歳で左近衛権中将に進んだという。
重衡は武将的性格をそなえ行動力もあったという。(以仁王の挙兵鎮圧、富士川の戦い、南都焼討、墨俣川の戦い、水島の戦い、そして一ノ谷の戦いで捕らわれた。)
頼朝は鎌倉に護送させた重衡を引見したが、その器量に感心して厚遇した。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、このくだりが謡曲「千手」に脚色されている。
(このあたりは、平家物語巻十「千手の事」、吾妻鑑元暦元年四月廿日の條に拠っているらしい。)
元暦2年(1185)6月、南都衆徒の強い要求によって重衡は奈良に送られ、木津川で斬首されたという。享年29才。

所どころの事跡を訪ね、少し調べて見ると新たな発見もあります。

(写真)
安福寺と十三重塔の供養塔、「不成柿」「首洗池」の跡(池はわずかな窪地となって残るのみ)

浮き雲

(参考資料:ウィキペディア、能に生きる歴史群像、事跡の紹介資料)

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Re: 平重衡の供養塔
【返信元】 平重衡の供養塔
2021年09月01日 08:26
重衡の妻の藤原輔子(安徳天皇の乳母をつとめ、大納言佐と称した)は壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した時、他の女たちと入水するが助け上げられ捕虜となった。
後に山城国日野(京都市伏見区)に住む姉の居所に隠棲したという。
重衡が奈良に送られ、日野の近くに差しかかった時に対面が出来たという。
そして、重衡の遺骸を引取り、日野の地に墓を建てたという。
その後、出家して重衡の菩提を弔い、大原寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えたとあります。

謡曲「大原御幸」の大納言局が重衡につながったことは、私にとって新たな発見でした。
夫々の人物像を知ることで歴史のひとこまに広がりが出来、興味が深まりました。


(写真)
京都伏見区日野の墓(醍醐外山街道町:今は団地の中の公園にある)