祇園祭に興味をもつようになって 10年目。いろいろと勉強してきましたが、毎年 新しい発見や学びがあります。八坂神社は、神仏習合の神社で明治維新までは 「祇園社」、または、「感神院」といわれる寺院でした。明治維新の廃仏毀釈により、地名や祭りの中だけ「祇園」という言葉が残ったようです。 その結果、本来の祭神/仏教「牛頭天王)と神道の「素戔嗚尊」が同一視され祀られるといった不可思議な現象(?)が起こっています。 でも 今になっても 各山鉾町で行われる 吉符入り(神事始め)で祀られる祭神の名前は、「牛頭天王」(掛け軸)です。そこに 京の町衆(氏子)の“反骨精神”を見るような気がしています。(素戔嗚尊を入れ両名併記の掛け軸の町も一部ある。) これまで なぜ、八坂神社の神紋は、「五瓜に唐花紋」と「三つ巴紋」のふたつあるのか 疑問に思っていましたが、そのことについて 家紋研究家森本勇矢氏のお話を聞きました。(京都浪漫・TV) 木瓜紋の方は、牛頭天王が戦いに敗れて逃げていた時、瓜畑で難を逃れ、それ以来 瓜(きゅうり)は、神聖なものになり 食べなくなったと言われてましたが、きゅうりは、徳川の家紋・三つ葉葵にも似ているので、幕府の方も “食すべからず” のおふれを出していて そのふたつの説が入り混じったのではと話していました。 あくまで伝承の世界の話ですから、諸説ありで当然なのですが、京町衆のこれまでの反権力の姿勢からみれば、私は、やはり、牛頭天王由来説の方かなと思います。 三つ巴紋の方は、もともと闘いの神 八幡神の紋章。牛頭天王の荒魂をその紋でシンボライズしたのでしょう。 森本氏の話を聞き、これまで 疑問に思っていた神紋由来が 自分の中で 整理できました。 牛頭天王伝説は、面白いです。彼は、インドの祇園精舎の守護神といわれていますが、韓国にも牛頭山があり、彼がどんな足跡を辿って日本に到達したのか 非常に興味があります。 |