1,430万kW/1,765万kW (04/18 12:25)
81%
2021年04月26日(月) 

 

 

>作家の松本清張や日本文学者のドナルド・キーンを担当してきた編集者で、報道番組のコメンテーターも務める堤伸輔さん(64)は、「敬語へのなじみが次第に薄くなり、日本人にとって敬語が難しいものになっているからでは」と語る。

 

責任と関係のない上下判断は価値観の歪みにしかなりませんね。偏差値教育のほころびのようなものでしょうね。        

 

>「お年寄りに対してなど、年齢の上下関係で敬語を使うことが日常生活で減ってきています。 >その結果、どんな敬語の使い方がその状況における『適正水準か』が、わかりにくくなっている。 >敬語の使い方に自信がないと、人は過剰敬語になりがちなんです」  

 

そうですね。相手に損を掛けないようにすることが主眼となりますね。英語や中国語には階称はありませんからね。英米人も中国人も自分の親の名前や国家元首の名前を呼び捨てにしますね。だから、彼等とのやり取りに日本人は違和感をもちますね。        

 

> たとえば、「菅総理はこう言いました」と言おうとするとき、「こいつ失礼だなと視聴者に思われないか」と一瞬でも頭をよぎれば、「菅総理はこうおっしゃいました」と言ったほうが安全だと考えるかもしれない。 >瞬時の判断で敬語をどう使うべきかわからない場合、人は自分を守るために敬語を過剰に使う傾向があるのではないか。>堤さんはこう話す。

 

そうですね。日本人はこうして我が身の安全を図るのが常識ですね。世俗的な序列社会の崩壊が進んでいますね。          

 

>「そういう私たちの言語生活の変化が過剰敬語を生み、テレビの現場にもその波が及んでいる、ということだと思います。

 

そうですね。敬語はあって無用なものですね。   

 

>メディアだけではありません。>たとえば、野党による国会質疑の場面でも、『攻める』べき野党が、『総理、ご見解をお伺いできませんか』などと言うシーンをよく見かけますよね。>『総理の見解はどうですか』で十分なはずですが、対等な立場で相手を問いただすべき野党議員も、過剰敬語を頻発しているのが現状です」   

 

そうですね。皆が相手を呼び捨てにする ‘お前と俺’ の平等社会にはなれませんね。      

 

> 堤さんが最近気になる過剰な表現は、他にもある。 >その一つが、新聞記事などでよく使われるようになった「〇〇大臣はこう指摘した上で、□□と述べた」というときの、「指摘した」という書き方だ。

>■安易な「指摘」の使い方 >「そこで何か本当に大事なことを言っていたり、相手の言った間違ったことに対して『指摘』したりならわかります。>そうではなく、『政府としては状況を注視していきたいと指摘し』などは『指摘』でも何でもないですし、『述べ』あるいは『言い』で十分です。  

 

そうですね。 言葉の意味の勉強が必要ですね。Thesaurus (分類語彙辞典) を使うと便利ですね。  

 

>敬語ではないけど、『相手が何か大したことを言っているかのように』思わせる言い方を、実はメディアはひじょうに安易に使っています。

 

そうですね。歯の浮いたような空虚な発言が多すぎますね。   

 

>これも、同じ流れの中にある『広い意味での過剰敬語』だと思います」  

 

権威付けに役立つのでしょうかね。雰囲気に酔って中身がない。   

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)   

 

 

 

.

 

 

 

 


閲覧数444 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/04/26 08:46
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
のがさん
[一言]
■最近のアルバム
■最近のファイル
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://www.sns.ochatt.jp/blog/blog.php?key=1208592