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2025年05月18日(日) 

 

>ダイヤモンド・オンライン   >「古くて非効率」を切り捨てる “頭のいいリーダー” の組織が成長しない納得のワケ   >倉本圭造によるストーリー・   >6時間・   

>経営コンサルタントで思想家の倉本圭造氏は、若い頃は徹底した個人主義で、日本的な制度や雰囲気が大嫌いだったという。   

>だが、高校時代に体験したできごとによって徐々に考えを変えざるを得なくなった。   

>同氏によれば、日本社会においても個人主義と伝統的なものが拮抗(きっこう)しており、経済にも影響を及ぼしているという。   

>※本稿は、倉本圭造『論破という病「分断の時代」の日本人の使命』(中公新書ラクレ)の一部を抜粋・編集したものです。   

>震災のときに体感した「義理の連鎖」の存在   

> 私の過去の本などでも時々述べていることですが、私は中学生ぐらいの時に明確に“左翼”を自認していて、日本社会的なアレコレがとにかく心底嫌いな人間でした。   

> 天皇制にも反対でしたし、敬語というシステムがあるがゆえに日本人は「個人」ではなく「立場」でしか物事を見られない無責任体制を続けてしまうのだ、とか怒っていましたし、そういう自立した近代的個人みたいな理想像からするとバカバカしく見える日本社会のあらゆる要素を、消え去るべき因習だと憎悪していました。   

> たまにSNSで若い人が「挨拶って必要か?」みたいな放言をして袋叩きに遭っていますが、ああいう感じの「個人から見た合理性」の原理主義者、みたいな感じだったわけですね。   

> しかし、その後、高校1年生の時に阪神・淡路大震災で被災し、人工的に作られた社会秩序が突然その外側からの一撃でたやすく崩壊することや、しかしその崩壊した傷を、厳密な意味での個人主義の外側にある大きな生命的な助け合いの連鎖が、強烈な集合的意志をもってモクモクと自己修復していく様子に衝撃を受け、徐々に考えを変えざるをえなくなりました。   

> 高速道路の高架が崩れたり、かなり高いビルが丸ごと横倒しになったり、家の近所がワンブロック全て焼け野原になったり……そんな崩壊した日常生活の向こう側から、それでも治安を保ち、必死に助け合う動きが立ち上がってくる日本社会の分厚い「義理の連鎖」の存在を体感したのです。   

> また、高校では、全国大会に出場した回数がその時点で最多という伝統が“売り”な音楽系の部活に入り、その中心人物になったりして、これもまた考えを変えざるえない体験となりました。   

> 進学校とはいえ普通の公立高校なので、新入部員の特に男子は未経験どころか「楽譜も読めない」方が普通……という状態から自分たちはスタートする一方で、関西大会には、音楽科の生徒が集まって出てくるようなライバル校もいる。   

>「普通に考えたら勝てるわけないじゃん」的な感じなのになぜ毎年安定して勝ち、全国大会に行けてしまうのか?   

>「ハグレモノの個人主義者」としてしか生きてこなかった自分にはそのことが本当に不思議でした。   

>ほっといたら堕落する人を共通目的に向かわせる仕組み   

> 幼い頃から音楽の英才教育を受けた存在以外の、「“そこらへんにいる普通のお兄ちゃんお姉ちゃん”みたいな存在を、たった3年間で“イッチョマエ”に全国大会レベルで活躍できるように仕立てる」メカニズムの背後には、それまでの自分が憎悪してきた日本社会の因習にしか見えないものが重要な役割を果たしていることを知ったわけです。   

> 具体的にいえば、ほっといても頑張れる人というのは世の中のうち一握りだけであり、ほうっておいたら果てしなく堕落しちゃう人を、無理なく1つの共通目的に向かわせるための「有形無形の仕組み」が社会には必要なのだ、ということです。   

> そして、バリバリの知的な個人主義者から見ると心底許せないように見える因習の中には、ほうっておいたら果てしなく堕落しちゃう人を、「イッチョマエ」の存在に無理なく押し上げる儀式的価値のようなものが組み込まれているのです。   

> 部活でいえば、地区大会に向けて雰囲気を盛り上げるため下級生が準備するイベントのようなものが色々と組み込まれていたりする。   

> その苦労があまりに過大なら負担軽減するべき……なのですが、いざそういう苦労がゼロになると、人間はダラダラした日常の延長では、「大会」という勝負事に向かうメンタルを高めていくことができないのです。   

> 結果として、伝統の力が息づいていた昔なら考えられなかったようなミスが頻発して冷や汗をかいたりすることになる。   

> 色々な深い配慮が組み込まれた因習は、ものすごくやる気に溢れた自律的な個人以外も「イッチョマエ」に活躍できるようにする深遠なパワーを持っているんですね。   

> とはいえ、そういうことがちゃんとわかったのは卒業後だいぶんたってからでした。   

>狭義の合理主義者の改革が集団が持つ本来の強みを崩す   

> 実は、私は自分が3年生になって実権を握ったところで、因習に見えたありとあらゆるものを全部廃止していったのですが、そうするとその後嘘みたいにその部活が弱体化してしまい、かなりの長期間にわたって「誰も知らない無名の高校」になってしまうという体験をしたのです。   

> 逆に、最近はまたその母校の部活は安定して全国大会に出られるようになってきて、シーズンが来るたびに同窓会LINEグループが大騒ぎになるのですが、それはOGにあたる卒業生の女性が赴任して顧問になり、強い思いを持って取り組んでくれたからでした。   

> 個人主義者で(狭義の)合理主義者みたいな存在からすると、憎らしくてたまらない“何か”によって支えられている共通善のようなものがあるのだ、と痛感せざるをえない体験をしたわけですね。   

> この「狭義の合理主義者がよかれと思ってやること」が、その集団が持つ本来的な強みを掘り崩していってしまうようなことは、私が外資系コンサルティング会社に入ってからする仕事の中でも、全く同じトーンで全く同じ過ちをしているようで、ヒヤヒヤさせられる課題となりました。   

> 最善を目指して徹底的に考え、間違いない作戦を実行しようとしているはずなのに、砂を掴んだ手のひらから砂がサラサラとこぼれ落ちてしまうように大事な“何か”を取りこぼしているような感覚。   

> 日本で働いていると、そういう謎の焦りを感じたことはありませんか?   

> その根本的なすれ違いをいかに克服していくかを考えないと、押しあいへしあいになってしまい、どこにも進めなくなります。   

> アメリカのように単純な合理性を徹底的に隅々まで追求するだけでは勝てないという宿命を、日本は負っているのです。   

> そのあたりの事情を深掘りしていきながら、日本が本当に変わっていくために何が必要なのかを考察することにします。   

>個人主義の「水の世界」生命的連携の「油の世界」   

> 私は、中学生時代の自分が奉じていたような徹底した個人主義・狭義の合理性重視の姿勢を「水の世界」と呼び、そして私が高校時代に参加していた部活の謎の強さや、阪神・淡路大震災の次の日には生まれていた、多くの人たちの自発的な連鎖、少しずつ傷を塞いでいくような生命的連携を生み出す基盤の部分を「油の世界」と呼んでいます。   

>「水の世界」では、水の最小の粒子(分子のことなのか原子のことなのかさらに小さい単位のことなのか……などと物理学的に厳密に考え始めるとキリがないのでそこは考えすぎないようにしてください)は、常にその瞬間その瞬間に最適と思える場所に移動するので、隣同士でべったりくっつきあって自分の行動が制限されたりはしません。   

> 一方で「油の世界」では、もっと粒子同士の関係性が密であり、1ヵ所にへばりついて自分たち特有の世界を形成します。   

>「水の世界」で生きていた中学生時代の私は、日本社会の「油の世界」的な要素を心底憎悪していましたし、逆にあなたが「油の世界」の住人であるなら、これまでの人生で、水の世界」の住人の行動様式を苦々しく思ったことがあるはずです。   

> あなたは水と油、どちらの性質を強く持っている人でしょうか?   

>「水と油」は混ざらないものの代表としてコトワザになっているぐらいですから、ほうっておくと仲が悪くなりがちですし、〈敵側を排除し、自分たちの側の論理だけで世界を塗りつぶしてしまいたい!〉……という欲求を持ってしまいますよね。   

>日本が改革を叫び続けながらどこにも進めなかった理由   

> そして、「油の世界」の論理だけを追求すると、人々の連帯感や社会の安定性が生まれる長所はありますが、一方で個人に対する抑圧が強くなりがちですし、千変万化する情勢に鋭敏にやり方を変えて立ち向かったり、最新の技術や学識を柔軟に取り入れたりすることが苦手になりがちです。    

> この「油優位の世界」をイメージしてみると、これはまったく過去20年の日本経済のようですね!   

> 一方で「水の世界」の論理だけを追求すると、最新の技術や学識を素早く取り入れ、急激に形を変え続けて世界中に浸透することは得意ですが、一方で、地場の人間関係の連帯、いわゆる“キズナ”と呼ばれるようなものはズタズタに破壊されて社会が不安定化してしまいがちです。   

> この「水優位の世界」をイメージしてみると、これは過去20年のグローバル資本主義に全力で飛び込んだタイプの国(例えばアメリカ)が陥っている現象そのものだとイメージできますね?    

> こう考えてみると、過去20年の日本は、アメリカ型の「水優位の世界」に日本社会を丸ごと変えてしまいたい勢力が「“カイカク”が足りない!既得権益をぶっ壊せ!」と叫び続け、一方でそれによって日本社会の本来の強みのようなものが崩壊してしまうのでは、という危機感から必死に抵抗をし続けた「油の世界」の住人たちが“昭和の議論”を押し立てて、ありとあらゆる変化に抵抗し続けた歴史だといえるでしょう。    

> なぜ日本社会が改革を叫び続けながらどこにも進めなかったかが見えてきましたね?   

 

日本人の改革は元を正さず末に走る努力ですね。   

無哲学・能天気の日本人は個人主義に達することが難しい。   

序列制度は個人を序列に割り込ませることを嫌う組織ですね。徒党を組んで力を発揮する制度です。個人の離合集散が難しい組織で閉鎖的ですね。         

現実の世界は千変万化して止まることが無いのですから、個人は離合集散を繰り返して最適な生産体制を維持することが必要ですね。ここでは人材の高い流動性がカギになりますね。      

日本人にはアッケラカンとした世界の中で、ドライに割り切るセンス (判断力) が必要ですね。   

 

 

 

 

 


閲覧数28 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2025/05/18 14:47
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