日東駒専 |
>ダイヤモンド・オンライン >「日東駒専はもはやFラン大という意見を見てショックです。これって本当なんですか?」大学評価の実態はどこにあるのか >びーやまによるストーリー・ >7時間・ >「大学受験」は10代における最大のイベントです。
そうですね。大学受験は日本人の人間序列を決める行事ですね。
>残念な側面でもありますが、いい大学にいけば、なりたい職業になれる確率は上がり、将来の選択肢は増えるのが現在の日本です。
これは名前を変えた身分制度ですね。序列社会に生きる序列人間の運命となっていますね。若者には、未来の日本も視野に入れる必要がありますね。
>それほどまでに大学受験の持つインパクトは大きくなっています。
そうですね。堅くるしい日本人社会の枠組みですね。
>そんな難しい時代でも「自分らしい大学進学」をするために書籍:『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』が発売中です。
日本の国は序列社会で成り立っていますが、若者は国際社会のルールの方も知っておく必要がありますね。 ‘THE世界大学ランキング’’世界大学学術ランキング’‘QS 世界大学ランキング’などを参考にすると良いですね。[QS: Quacquarelli Symonds] 我々日本人は開国の精神を持ち続ける必要がありますね。井の中の蛙たちを増やさないように努力を重ねなければなりませんね。 折角の教育に関する議論が隠れた身分制度により台無しにされることの無いようにしたいですね。身分制度からの脱却がどうしても必要なのは、その没個性的なこだわりが英米流の高等教育への道筋を閉ざしてしまうからです。
>本書は、きれいごとを抜きにして、「大学受験とはどういうものなのか」「人生とはどういうものなのか」を考えることができる受験の決定版です。
我が国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。求めよ、さらばあたえられん。意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there ‘s a way.
>本記事では発刊を記念して著者である、びーやま氏への特別インタビューをお届けします。 >お悩み相談 >「日東駒専はもはやFラン大という意見を見てショックです。これって本当なんですか?」※1 >日東駒専もFラン大? >――著名人や評論家のなかには、今回の相談者の言うように「日東駒専はFラン大」と言う人もいます。 >実際そこまでレベルの変化が起きているということなのでしょうか。 >びーやま氏(以下:びーやま):さすがに日東駒専をFラン大だとするのはムリがあります。 >ここで断言しますが日東駒専はFラン大ではありません。 > 念の為言っておきますが、Fラン大というのは「ボーダーフリー(BF)」と言って、定員割れなどにより偏差値が測定できない大学のことです。 >最近は偏差値の低い大学すべてをFラン大とする風潮がありますが、やりすぎです。 > ましてや日東駒専は偏差値50前後なわけで、受験生の半分は日東駒専に入れません。 >ここがFラン大だとしたら大変なことです。 >――よく理解できました。 >ただ、どうしてこのような意見が出てくるのでしょう。 >びーやま:昔に比べて全体的に大学に入りやすくなったからだと思います。 >今の時代は選ばなければ大学全入時代ですから、そういった傾向をよく思わない人があれこれ言うのだと思います。 > ただ、別に大学全入時代になったことの責任は今の学生にあるわけじゃないんですから、学生が気にするようなことを言うべきではありません。 >むしろ大学飽和状態になっているのは我々大人の責任です。 > なので、今回の相談者が日東駒専生なのだとしたら、気にせず大学生活を楽しんでほしいです。 >日東駒専は普通にいいところなので安心してください。
普通にいいところ (良い位置) というのは序列制度の観点ですね。
>ノイズを気にせず、自分に意識を向けよう >――大人のなかでも今回のように大学ネタが好きな大人は多いように思うのですが、どうしてなのでしょう。 >びーやま:僕も大学ネタが大好きな大人なのであれですが、話しやすいからだと思うんですよね。 >今の社会は大卒も多いですし、自分が経験してきたことって詳しくもなりますからあれこれと言いたくなるんです。 > でも、ほとんどの場合自分が学生のときの感覚が抜けていないので実際とはギャップがあったりするんですよね。 >それを受け止められる度量がある人ならまったく問題ないんですが、そうじゃない大人は、なぜか現役学生への攻撃へと走るので厄介です。
大学の話をしていながら教育論になっていない。情けないことだが序列制度の話になっていますね。 子供の頭の中には現実 (事実) の内容だけがある。 大人の頭の中には現実と非現実 (考え・哲学) がある。大学生時代に大切な精神的な成長がある。 大人の教育の話をするなら、大学入学の難しさでなくて、卒業試験の難しさの話でなくてはならない。
>――どういうことでしょうか。 >びーやま:たとえば、かつて大学に入るのが大変だった時代は日東駒専も今以上に落ちる人が多かったわけですよね。 >でも、今の時代はそこまではむずかしくないし、指定校推薦(学校型選抜)などもある。 > そうなると、「昔はあんなにむずかしくて俺は落ちたのにけしからん!」みたいになる人もいるんですよ。 >本当に八つ当たりなので、基本的には気にしないでいいかと思いますが。 > もちろん、多くの大人は自分の大学受験の経験をもとに今の受験にエールを送れる人たちですから、そのあたりも安心はしてほしいなと。 > しかも、もっと言えば、こういったことは社会に出てからもありますから、そのときのための練習だと思って割り切りましょう。 >大人になっても「俺のことは、~~なのに、今のやつらは~~」みたいなことを言ってくる人はいますが、それらをうまく受け流して自分のことに専念するのもまた1つのスキルです。
年寄りの小言は昔からありましたね。未来に目を向けた方が価値が高いですね。
> 最初はモヤっとするかもしれませんが、今の自分の成長にだけ目を向けていきましょう。
そうですね。大学生時代の成長が大切ですね。
>――ありがとうございました。 >大変勉強になりました。 >※1:本記事ではびーやま氏、もしくは編集部宛に届いた悩みを扱っております。
(略)
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。実況放送・現状報告に終始する。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。リーズン (理性・理由・適当) の価値は教養により高められる。我々日本人は他人の受け売りを学ぶばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひ獲得すべき知性の保証です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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