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2026年01月25日(日) 

 

>tend   >「老害でしかない」「何様のつもりか」世間からズレまくったまま権力に居座る高齢議員たちに「一刻も早く退場を」と非難の嵐   >tendの意見・   >13時間・   

>経験豊富という言葉を盾に権力の椅子にしがみつく長老議員たち 「いい加減、自分が老害だと自覚してほしい」   

>いま、国政の場に君臨し続ける高齢議員たちに対し、かつてないほど厳しい怒りの声が向けられています。    

>もちろん、年齢そのものが悪ではありません。   

>しかし、世間の感覚から大きく逸脱した傲慢な振る舞いや、後進に道を譲ろうとしないその執着心に、有権者は猛烈な拒絶反応を示しています。    

>アンケートツール「Freeasy」が実施した「引退してほしい75歳以上の国会議員」の調査結果には、もはや敬意の欠片も感じられない、剥き出しの批判が並びました。    

>第3位にランクインしたのは、77歳の河村たかし氏です。    

>当選回数や地方自治の長としてのキャリアはあれど、国民が抱く印象は「不快感」が勝っています。    

>象徴的なのは、五輪選手の金メダルを勝手にかじり、女性に無神経な発言を投げつけたあの騒動です。    

>アンケートでは    

>『金メダルの件の印象が悪い』    

>という拒絶や、    

>『言動に品がない』    

>『今の時代に合ってない』    

>など、アップデートできない感覚を切り捨てるような声が相次ぎました。    

>続く第2位は、83歳の小沢一郎氏。    

>かつての「剛腕」も、今の時代には通用しない「過去の遺物」として映っているようです。    

>SNSで政権批判を繰り返すものの、実態が伴わない活動に対し、    

>『特に何かをしてる印象もなく、今となっては名前だけ有名』    

>『「壊し屋」も過去のもので、すっかり存在感を失っている』    

>かつてのカリスマ性も、今の有権者にとってはもはや不要なものとなりつつあります。    

>そして、第1位となったのは、85歳の麻生太郎氏でした。    

>元首相であり、今なお党内で唯一派閥を維持して「キングメーカー」として君臨するその姿は、国民にとって「政治の停滞」の象徴でしかありません。    

>周囲が忖度し、誰も正面から反論できない空気を作り上げている現状に、    

>『黒幕みたいに政界を牛耳っている。』    

>『強い権限を持ち政界を自分の思うように動かしている』    

>といった、独裁的な姿勢を危惧する声が殺到しました。    

 

天は人の上に人を作らず。   

だが我が国は人の上に人を作る。これが序列社会の仕組みです。    

外国はため口社会です。だから、議論が自由にできる。[ため口: 相手と対等の立場でものをいうこと]  

序列社会では自由に議論ができないので、人々は忖度ばかりに頭を使うことになる。      

 

>さらに、国民を逆なでするような失言癖も致命的です。    

>庶民の金銭感覚とはかけ離れた発言や、女性閣僚を「おばさん」と呼び容姿を揶揄するような時代錯誤な感覚。    

>もはや一刻も早い「退場」を願う声が渦巻いています。    

>なぜ、麻生氏をはじめとする長老たちはここまで嫌われてしまうのか。    

>それは、彼らが守っているのが「日本の未来」ではなく「自らの権威や居場所」であると、国民に見透かされているからではないでしょうか。   

 

そうですね。日本の未来は非現実、自らの権威や居場所は現実ですからね。現実肯定主義の日本人は後者を護ることになりますね。         

 

>The post 「老害でしかない」「何様のつもりか」世間からズレまくったまま権力に居座る高齢議員たちに「一刻も早く退場を」と非難の嵐 first appeared on tend. 「あなたの好きが、ここで深まる。」   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は他人の受け売りを練習するばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

頭を使うということは暗記力を示すことではなく自己の見解を明らかにすることである。高等教育機関に在籍して自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら寄与していない。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。個性を勘案したら序列判定に不公平が生じる。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験することができない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間比較の叙勲は国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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閲覧数24 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2026/01/25 01:19
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