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2024年04月29日(月) 

 

>毎日新聞   >穏やかに逝った101歳 沈黙から一転、語り続けた戦争と平和   >毎日新聞 によるストーリー •    >4 時間 •   

> 戦後79年を前にまた一人、大切な証言者の声が失われてしまった。   

>第二次世界大戦終結後、旧ソ連によってシベリアに抑留された三重県伊勢市の大釈(だいしゃく)敏夫さんが4日、亡くなった。   

>1月に誕生日を迎え、101歳だった。   

>全国強制抑留者協会の県支部長を務め、抑留体験を語り続けていた大釈さん。   

 

彼は貴重な語り部でしたね。   

 

>過酷な体験を語ると必ず「戦争はしてはいけない」と平和を訴えていた。   

 

そうですね。もう戦争は懲り懲りですね。   

 

> 県支部は21日、津市久居野村町の陸軍墓地公園で、2006年から続く慰霊祭を行い、抑留者を悼んだ。   

>抑留体験者や遺族ら約40人が参列。   

>降りしきる雨の中、黙とうをささげ、シベリアで力尽きた600人以上の県出身者の名前が刻まれている「平和の礎」の碑に献花した。   

 

600余名各位のご冥福を祈ります。   

 

> 出席予定だった大釈さんの遺影を抱いて参列した長女の田岡恵子さん(70)は、父の支部活動に寄り添ってきた。   

>「温厚で話をするのが好きだった」と生前を懐かしみながら、身の回りのことも自分ででき、家族に世話になることもなく、穏やかに逝ったことを明かした。   

> 大釈さんは1923年に現在の度会町に生まれた。   

>18歳で開拓団として旧満州へ渡り、45年に鞍山の高射砲部隊に入隊。   

>終戦間際に侵攻してきた旧ソ連軍と交戦し、捕虜になった。   

>48年に帰国後は、「写真で父が戦地へ行っていたことは知っていたが、戦争について語ることはなかった」と田岡さんが振り返るように、家族にも抑留されていた当時のことは口を閉ざした。   

 

そうでしょうね。辛い体験を語ると、その辛い思いが蘇ってくるので苦しみますからね。   

 

> 沈黙から一転、語るようになったきっかけは、70代に大病を患ってからだという。   

>「亡くなった戦友のことを伝えるために話さないといけない」と大釈さんは抱いた使命感を明らかにしていた。   

 

もうこりごりだの体験話だけでは戦争の予防策としては不十分ですね。    

 

欧米人には意思がある。

意思のある人間には加害者意識がある。   

これが高じると罪の意識となる。だから、病める魂の救済を求める必要のある人も出て来る。   

深刻な反省に至ることも多い。だから彼らは原因究明に力を入れる。彼らにとって失敗は必ずしも時間の無駄ではない。   

必ず原因究明の成果が予防策に反映されて進歩を伴っている。      

 

日本人には意思が無い。  

意思の無い人間には加害者意識がない。

罪の意識もない。有るのは被害者意識ばかりである。被害者・犠牲者だらけはでどうしようもない。          

深刻な反省にいたらないから失敗から何も学び取ることができない。この不勉強が致命的である。   

 

> 抑留者は厳しい自然環境の中、強制労働が課され、満足な食事も与えられず、飢えに苦しんだ。   

>厚生労働省の調査によると、約57万5000人の抑留者のうち、約5万5000人の死亡が認められている。   

>帰国を願いながら、かなわなかった仲間たちへの思いが、大釈さんを突き動かした。   

 

彼は気分・雰囲気・感情の問題につき動かされたのですね。   

 

> 講演の際、台本は用意しなかった。   

>寒さに耐えながら重労働に従事し、食事は水のような薄い味のスープと一切れのパンのみ。   

>仲間たちが次々に息絶えてしまう極限の状態に追い込まれ、自らも死を覚悟した経験を、時を経てもあふれてくる感情から出てくる言葉で紡いだ。   

 

それは歌詠みになりますね。   

 

> 田岡さんは「みなさんが熱心に話を聞いてくれることがうれしかったんだと思う」と精力的に活動を続けた父の心中を推し量った。   

 

そうでしょうね。本当にご苦労さんでしたね。わが国にも深刻な反省の持ち主が現れるとよいですね。    

 

>印象に残っているのは23年夏に伊勢市の中学校を訪れたときのこと。   

>戦争をしてはいけないと訴えた父の姿から、「未来ある子どもたちにつらい思いをさせてはいけない」という強い意志を感じた。   

 

残酷なものは未来の無い若者と、過去のない年寄りですね。   

 

日本人には意思が無い。   

たとえば【英対する開戦の詔勅】であるが

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。

 

すると一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。    

国民がやむを得ない反応だけをする人たちの群れであっては万事休すですね。

意思のある所に方法 (仕方) はある。Where there's a will, there's a way.

我々は心を入れ替えなければならないでしょうね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

> 23年の慰霊祭で大釈さんは「私たちが受けた同じような悲劇が二度と起こらないよう、一層の努力を傾けます」と述べた。  

 

我々日本人は自らの意思を示す必要がありますね。意思のある所に方法 (仕方) はある。原因究明が第一ですね。その次がその予防策ですね。      

 

>田岡さんは父の言葉を思い出し、混沌(こんとん)とする現代の国際情勢を重ね合わせ、「外国で戦争が起きている。   

>(体験者として)戦争はやってはいけないと、もっと伝えてほしかった」。   

 

他力本願・神頼みでは平和は我々の所へはやって来ないでしょうね。  

 

>父のように体験談を語ることはできないが、遺志を継ぐように「これからも慰霊祭に参列する」と遺影に誓った。   

 

我々には深刻な反省が必要ですね。  

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

>【下村恵美】   

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数140 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2024/04/29 03:17
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