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宇治市槇島町に高射砲陣地があった
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2007年12月18日 20:03
―第1部― <高射砲陣地の跡地・京都文教大学を訪ねて>

 先ずは、高射砲陣地の跡地を確認しておかなければと、今年三月末、宇治市槇島町千足の京都文教大学を訪ねました。
杉本星子教授にお世話になり、学校の生き字引とも称される太田宏之氏の話を聞くことが出来ました。戦争遺跡の追跡に余念のない夫も同席しました。
 
太田氏は、大学の創設に係わってこられただけに、四十年前のことなどをすらすらと話してくださいました。アウトラインを整理しておきましょう。

・大学の前身は、京都市左京区に昭和35年に開校された家政短期大学であった。
・本学は、仏教精神を教育の柱とする大学である。
・学園創立60年の年に当り、現在の宇治槇島の土地を購入して、昭和42年に全面移転した。
・学校の教職員に僧侶の資格者が多く、校舎の土地確保に当たっても寺の縁をたより、檀家様を説得していただき購入できた。
・こうしていざ学校の創設に至ったが、巨椋干拓田の真ん中に出来た学校ゆえの苦労が
続いた。辺りには民家もほとんどなく、ススキの原に国道24号線だけが走っていた。
・竣工した校舎の運動場に水が湧き出たり、校舎の一階の床が水に浸食され腐ったことも。運動場の真ん中を水路が通っていたのを脇へ移動してもらったりもした。
・食事する店もなく不便だったし、帰路は終バスを過ぎると、タクシーに手を上げても不審者と間違われて止まってはくれず、学校に宿泊することがあった。

こうした学校の歴史にまつわるお話を聞き終え、やおら持参した地図を広げ、核心の高射砲陣地についての記憶を辿っていただきました。
「工事の際に、ここに戦時中高射砲陣地があったという話は聞いた記憶がありますよ。その頃はもう既に取り壊された後だったのですが、、、」
「その跡地に、今は1号館と4号館が建っています。高射砲陣地を証明するものは何も残っていませんが、そこで発見した古い祠をそのまま残していまも祀っています」
「この地にあった巨椋池干拓田の蓮を、城陽の農家の方からいただき、学校の尋源池に移して育てています。きれいな蓮池になっていますよ」

 歴史を遡る数々の太田氏の話から、京都文教大学のキャンパスにかつて高射砲陣地があったことを確認することができました。

 いよいよ高射砲陣地跡の見学です。
1号館・4号館はキャンパスの最南端にあって、いかにも歴史を感じさせる古い建物でした。戦時中は恐らくこの辺りに円形の高射砲陣地が設けられていて、宇治火薬庫や伏見師団を防衛するために敵機の襲来に備え守りを固めていたのであろうと、想像しながら眺めました。

 尋源池の蓮は、花の季節に再度訪れてみたくなるほど見事に水面に広がっていました。
 池のほとりには、祠がちゃんと祀られていることも確認しました。
往時をしのばせる貴重なものが、現在に至るまで大学内で大切に保存され、生かされていることに感動しました。
 
 正門近くに歩を進めたとき、緑豊な広いキャンパスを、ノートを抱えて談笑しながら行き交う学生たちを目にして、タイムースリップから抜け出たような不思議な気分を味わいました。
                               <続く>

 
             (杉本研究室で)          (高射砲陣地跡に建つ1・4号館)
  
             (尋源池の蓮)            (池のほとりの祠)

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