>1924年にシュタイナーが述べた言葉より >「日本は完全にヨーロッパ文化に支配されました。日本という名は残っていても、まったくヨーロッパ化されました。日本人はヨーロッパからすべてを受け入れ、自らの古い文化は外面にとどまっただけです」
そういうことになりますかね。
>ここで「日本」という言葉はシュタイナーの演説から消えます。その後、中国やインドが繰り返し出てくる中で、日本は一度も出てこなくなります。
中国には孔子、インドには釈迦がいるからでしょう。彼らには万巻の書がある。
>まあ、それでも、ここには、「自らの古い文化は外面にとどまっただけ」とあり、表面的には日本人の暮らしや衣服や食事などの「外面」は生き残っていたこともわかります。
我々日本人には、外面しかありませんからね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
>その外面さえも完全に破壊されて、日本が完全に白人支配下に置かれたのは、第二次世界大戦後からということになりそうです。
意地・根性の大和魂は残っていますがね。
>実際、私はずいぶん以前から「もう何も残っていない」とは感じています。
無哲学・能天気では、何も残らないでしょうね。
>・・・オリンピックのメダル、ノーベル賞、英語が話せる、アメリカの大リーグで活躍、欧州のサッカーチームで活躍、西洋的なルックス、白人の映画賞、白人の味覚基準(ミシュランなど)……。ついには、日本の遺跡や名跡でさえ白人観光客の数と評価で決まったりというのが現実です。
自分に基準が無ければ、世俗の上下が基準ということになりますね。どこかで品定めが行われているのでしょう。
>いつからこんなに植民地になってしまったのだろうとは若い時から感じてはいましたけれど、しかし、これらは「口に出して言うと責められるので言ってはいけないこと」になっています。
大昔からでしょう。
>今回はつい書いていますが、実際はこれらは「書いてはいけないこと」です。
我が国のタブーですね。
>ともかく、そういう「ヨーロッパ的(=白人的)価値観」で評価されたものは徹底的に賞賛され、世の中の頂上にまでまつり上げられる。
それが、世俗の上下観というものでしょうね。
>どの日本人もその人たちの前ではひれ伏さなければならないし、まして批判などとんでもない。
恐れ多くも、勿体なくも、畏くも、、、これは、口癖かな。
>テレビでタレントか何かがノーベル賞を受賞した方や、大リーグで大活躍されている方をこき下ろしたらしたらどうなるか。その日のその人の SNS がどうなるか。
モノ言えば、唇寒し秋の風。我々は、ご唱和の世界に住んでしますからね。
>「民主主義は自由な意見が認められている」と言われることがありますが、私は自由な意見が認められるような光景を日本で見たことがないです。
自由とは、自由意思のこと。日本人には意思が無いから、意思はあっても意味が無い。’不自由を常と思えば不足なし’ ということです。 日本人には、考え (非現実) というものがない。非現実の内容は、日本文中では、この世の真っ赤な嘘になる。
>若い時には表現のようなものをやっていましたが、いつでも遠回しにわかりにくくしていました。「自分の意見が伝わらないように」やらないと潰されることが明白だったからです。
我が国では、話にうつつ (現) を抜かしてはいけないと言われています。意見は考え (非現実) であり、うつつを抜かした内容になります。そのようなものが、我々の社会で公言を許されるはずがまりません。
>いずれにしましても、この 100年間くらいの日本の歴史は、そのようなかたちで「白人に褒められること」を目指してやってきたような気にさえなります。
日本人には、自分自身の基準が無い。他から、他人から上と見られることに期待をかけている。自主独立の気風に欠けている。これも、上下観と無哲学による禍か。
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