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2018年07月26日(木) 

 

 

 

>若者たちは、2000年代に入った頃から明らかに精神的に変わってしまったという。

 

昔からあったことではないでしょうか。

 

>30年近く各大学病院で思春期外来を勤めていた鍋田恭孝氏は、その著書『子どものまま中年化する若者たち』で、若者たちがどのように変化しているのかを克明に記している。>「何とか立ち直ろうとする力が落ちている」>「悩む力が落ちている」>「主体的に動く力も落ちている」

 

日本人には意思がないので、主体的に活動することは難しいですね。考えなければ悩むこともない。誰がまっすぐに立っているのかもわからない。

 

>「疲れない付き合いだけに限定する」>「漠然たる不安を抱えている」>これらに共通するのは、面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け、自分が傷つかないように自我を必死に守り、傷つくくらいなら何もしないことを選択する受動的な生き方であると言える。

 

自ら進んで‘火中の栗を拾う’ ことは、避けたいですね。

 

>多くの若年層が等しくそうした傾向になってしまったということは、教育の現場がそのような若者たちを作っているということでもある。(略)

 

そうでしょうね。現実 (処世術) があって、非現実 (哲学) がない国では、そういうことになりますね。

 

>○世の中には怒りを持たなければならない場面もある

>若者たちが同時期にこのような問題を抱えるようになったというのであれば教育が問題なのだと誰もが気付く。>若者たちの性格の傾向は受けた教育にも影響される。>「面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け続ける若者たち」が大量に産まれているということは、教育の現場で若者たちがそのようになることを求めたということである。

 

そうですね。トラブル・メーカを根絶することですね。

 

 

> (中略)

>「みんな仲良くしなさい、協調性を持ちなさい」という面をことさら強調し、逆に強い信念や自分の主張をしないように抑える教育が意識的にも無意識的にも為されている。

 

無哲学・能天気の人には、信念も主張もありませんね。

現実の内容は、見ることができる。本当のことである。

非現実・考えの内容は、見ることができない。だから、嘘である。嘘は、誰しも言いたくない。考えたくもない。だから、想定外になっている。

 

> (中略)

>人は理不尽なことをされたら怒りを感じるものだ。>社会の不正にも怒りを感じるはずだ。>弱い者がいじめられていても怒りを感じる。>そして、間違ったことがまかり通っているのを発見しても怒りを感じて当然だ。>あるいは、自分が、自分の家族が、自分の国が、おとしめられていても激しく怒りを感じるはずだ。

 

強者の怒りは、抑止力となる。弱者の怒りは、ごまめの歯ぎしりに終わる。

 

>自分や自分の家族や国が他国の人間に馬鹿にされてヘラヘラ笑っているような人はまともではない。

 

そうですね。確かな対策が必要ですね。

 

>意味のない怒りもあるのだが、一方で社会正義としての怒り、正当防衛としての怒りもある。>世の中には、怒りを持たなければならない場面もある。

 

そうですね。

 

>○理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方か?

>「みんな仲良く」だとか「人類みな兄弟」みたいな教育があまりにも徹底され過ぎて、何があっても怒りという感情を抑えなければならないと教育されたらどうなるのか。

 

無哲学・能天気では、どうしようもないですね。

 

>「怒りを感じたらいけない……」

 

怒りは敵と思え。

 

>「理不尽なことをされても仲良くしなければ……」>「自分が我慢しなければ……」

 

忍耐は、無事長久の基か。

 

>このような思考回路になっていくのは容易に推測できる。>とにかく協調性を崩さず、その場を丸く収めることばかり求められるようになり、不安の中で生きるしかなくなってしまう。> (中略)>ただ「面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け続ける」だけしか学ばないで義務教育を終われば、面倒や対立やトラブルだらけの社会では押し潰される。 >世の中が理不尽なことや危険なことを教えるべきだ。

 

そうですね。

 

>その中で押し潰されないようにする方法を教えないから、若者たちはどうしたらいいのか分からずに、最初から最後まで自分を殺して生きることになってしまう。

 

耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのんでいますね。

 

>なぜ、「正しいことを主張する」ことを教えないのかというと、今の学校は若者をサラリーマンにするための養成学校のようになっており、「主張するより上司に従うこと」が優先されるからである。

 

上意下達ですね。思考停止と暗記力の活用ですね。

‘あるべき姿’ (things as they should be) は、’今はない姿’ (things as they are not) であり、現実に見ることのできない内容である。それは、’嘘’ そのものである。だから、想定外となっており、主張することはできない。

 

>「上司の命令が理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方だ」というのを学校から教えて社会に出して、サラリーマン社会でクビにされないようにしているのだ。

 

‘安全第一’ ですね。

 

>相手がどんなに理不尽なことを言ってきても、自分の主張は殺してひとまず謝罪したり賠償したりするように教えているということでもある。>こんな生き方を義務教育で徹底されたら、誰でも主体性を失って流れるように生きるしかない。

 

そうですね。現実に流されるしかないですね。

 

>本当に、こんなことでいいのだろうか。

 

良いはずがないでしょう。日本人には、’あるべき姿’ がない。’あるべき姿’ の内容は非現実であるから、日本語で表現したら ‘嘘’ になる。これが問題である。

これが英語なら文法に時制があるから、過去・現在・未来の非現実の内容は、それぞれの世界の文章として表現できる。だから、決して嘘にはならない。哲学になる。意味のある ‘考え’ になる。

文章になれば、脳裏にシカと記憶される。文章にならなければ、過去の内容は疾く風化し、教訓とはならない。未来には光明はなく、一寸先が闇となる。あるべき姿の現在は、‘すべての人は生まれながらに平同だ’ のような内容で、きれいごとである。’人間万事不平等である’ は現実の内容で本当のこと信じられている。 

現実の内容には身も蓋もなく、現在の内容には意義・意味が感じられない。それが、我々日本人の問題である。

 

’きれいごと’ を無くして、その全てを哲学・考え (非現実) として理解することが、軽薄な日本人の困難を打開することになる。非現実には、現実の重みはない。哲学は、非現実に実の重みを加えることになる。この努力が浅薄な日本人を思慮深い日本人に変えることになる。非現実の内容を理解して、その意味・意義を評価する人間になる。とは言え、日本語文法を根本的に書き換えることは不可能であるから、我々は日本語とは別に英語をも習う。二刀流にすれば、現今の困難は打開される。英米人は日本語を話しても、日本人の困難には陥らない。だから、英米式の高等教育は、我々の打開策になる。

 

 

 

 

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閲覧数674 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/07/26 23:30
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