◆意思と恣意 日本人には意思がない。けれども、恣意 (私意・わがまま・身勝手) はある。これはアニマルと同じである。 意思は文章になる。未来時制の文章内容になる。文章になるものには意味がある。文章は理解されて、議論の対象になる。文章は地球上を駆け巡る。 恣意は文章にならない。ばらばらな単語のままである。文章にならないものには意味がない。単語は理解されることなく、無視される。単語の発声は周りの人にしか届かない。 意思が存在すれば、意思疎通もある。意思がなければ、意思疎通もない。それでも日本人は困らない。言外 (非言語: nonverbal) に知らせる手段を持つ。 日本人には恣意がある。だから、恣意疎通もある。これを ‘なーなー主義’ と呼ぶ。’阿吽の呼吸’ ・ ‘つうかあの仲’ ・ ’以心伝心’ などという言い方もある。この状態は、非言語の世界である。アニマルり世界である。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。 矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。矛盾を含む文章は、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。 全ての人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 我々日本人の無哲学・能天気な状態は解消されなくてはならない。
恣意はどこの国でも認められていない。アメリカ人なら ‘恥を知れ’ (Shame on you!) の一喝で終わる。それをあれこれと問題視するのは日本人だけであろう。 日本人は、単語を活用する言語環境の中で生活している。これは、無言語生活といったようなものか。文章には理解があるが、単語ではどうにもならない。だが、日本人には忖度 (推測) がある。 忖度の題材は、単語である必要もない。蛙の鳴き声、鐘の音でもよい。とにかく、日本人は忖度 (推察) に熱中する性質がある。一億総歌詠みの習慣ようなものか。文章には議会であるが、忖度には談合がある。 忖度は、非言語の精神活動である。音楽・絵画・彫刻を鑑賞するようなものである。非言語活動には理解はなく、受け取る側の勝手な解釈である。だから、議論になじまない。 意味のある個人の表現は日本人にとって難しい。だが、意味のない個人差なら日本人にも表現可能である。’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という言い訳が成り立つからである。この活動は、言語による理解を超えている。
無意味な内容の存在に興味を持てば、非言語の活動にも熱がこもる。談合をしてお互いに、腹の探り合いをする。腹をくくって決着に至る。文章はないので、リーズン (理性・理由・適当) はない。ただ、決着だけがある。 西洋の神様は、自己の意思を示す。意思の内容は、聖書にも書き記されている。わが国の神様たちは、ノー・オピニオンである。出雲に集まって談合を開く。その内容は、わからない。
我が国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。だが、自分がどうであるかは、決して言わない。自分には、考えというものがないからである。だが、彼らの雄弁は止まらない。彼らは思考を停止して、他人の受け売りの専門家になっているからである。彼らは記憶力で勝負して飯を食う。幾ら尋ねても、彼らの方向は定まらない。
自己表現に価値がある。それは、建設的であり生産性がある。だが、わが国民は、自己表現が少ないので没個性的である。わが国は、只今人手不足であるが、頭脳不足であるとの話は聞いたことがない。頭は使っているのであるが、自己表現のために使ってはいない。自己がなくては、議論ができない。没個性では発展性がない。同じことの繰り返しになる。精神活動はほとんど停滞している。その結果は、ご唱和の世界の確認にしかならない。
◆現実と非現実 現実は頭の外にある。非現実 (考え) は頭の中にある。現実は見ることができる。非現実は見ることができない。考えは、ただの話であるから、聞き手の理解が必要になる。日本人の考えでは、現実の内容は ‘本当’ のこと。非現実は ‘嘘’ になる。 日本語は現実を語るための言葉である。だから、実況放送・現状報告の内容を語るために使われる。日本語で非現実内容を語れば、それは真っ赤なウソになる。 英語は、非現実の内容をも語ることのできる言語である。過去・現在・未来の三世界を個別に語ることができる。時制の一致 (the sequence of tenses) の文法が三世界の存在を保証する。だから、実学 (技術) のみならず、虚学? (哲学) をも成り立たせることができる。 恐竜の時代には、人は誰もこの地上に住んでいなかった。だのに学者たちは恐竜の生態について詳しく語る。まるで、見てきたような嘘をつく。これは、日本人流の解釈である。英語なら、これは許される。学問・哲学である。日本語ならば許されない。話の内容が現実離れしているので、信じることが難しい。これが知的活動に影響する。
現実内容は一つである。その内容に個人的な違いがあれば、事実関係調べが行われ、真実の発見に至る。 非現実 (考え) の内容は多数ある。人人により考えの内容は違っている。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。百花斉放となる。個人主義の発展により、個人の表現が可能になる。唯一の真実 (fact) ばかりを教えられた人間は、多数の真理 (truth) を受け入れることが難しい。そこで、英米人は、高等教育機関で英語の再教育を受ける。哲学を学んで、教養ある人に変身する。TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作った フランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の <不思議なインテリたち> の中で、日本人の知的未熟さについて、次のような見解を述べています。
、、、、どの大学に入れるか、それだけでなく、多くの点でこれからの全生活が、いかに「受験勉強」を突破するかによって決められかねない。しかしいったん、大学に入れば、控え目に表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学卒を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。(引用終り)
◆意思と責任 意思のない人には責任もない。日本人には意思がないから、仕事にも責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは、殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。 日本人の社会は序列社会である。世俗の序列ははっきりしていても、責任の序列は存在しない。上位の者は、意思がないので恣意に基づく命令を出す。上意下達であっても、命令者に責任観念はない。 意思があれば、加害者意識もある。罪の意識もあって、責任者は深い反省に陥ることも少なくない。意思がなければ、どんな犠牲をもためらわない。 それにも関わらず、日本人は責任が重いだの軽いだのと言っている。日本人の責任とは、義務の言い換えに過ぎないから、誰も責任は負いたくない。意思のないアニマル同様に、ただそこには義務だけがある。意思のないところに方法 (仕方) はない。だから、日本人の責任には牛馬の苦しみが付きまとう。だから、我々には、西洋人の猿真似は難しい。それぞれに文法が違うからである。英語と日本語の双方を学んで、言語の違いを理解しよう。さすれば、我々は国際人になれる。
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