>現代ビジネス >政治家の「神社参拝」は軍国主義的なのか…「レッテル貼り」がもたらす「思わぬ落とし穴」 >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) の意見・ >18時間・ (略) >にぎやかな靖国と厳粛な靖国 >これまで述べてきた靖国自体も、「下からの参加」がみられた空間だった。 >創建されたばかりの靖国神社は知名度もなく、ひともまばらだった。 >それが、日清戦争や日露戦争で戦没者が増えたことで注目が集まり、徐々ににぎやかな場所に変わっていった。 >文筆家の坪内祐三は、『靖国』でその様子を詳述している。 >靖国神社(招魂社)の境内では早くも明治四(引用者註、1871)年10月にフランスのスリエ曲馬団が興行している。 >(中略)サーカスが靖国神社の境内に再び登場するのは、明治20(引用者註、1887)年1月15日から2月5日にかけてのイタリアのチャリネ曲馬団来日興行だった。 >そして明治3、40年代に入ると、サーカスは、日本チャリネや大竹娘曲馬団などの日本人一座によって、靖国神社の例大祭の名物となってゆく。 >驚くべきことに、靖国神社の境内ではかつてはサーカスが名物だったのだ。 >それが厳粛な空間となるのは、1930年代後半、日中戦争の長期化により戦死者が急増してからだった。 >これに限らず、戦前のイメージは1930年代後半以降の総力戦体制下に引きずられていることが多い。 >だが、戦前も77年あった以上(※執筆時は2022年)、多種多様だったことも忘れてはならない。 >靖国神社で毎年7月に催される「みたままつり」は戦後にはじまったものではあるけれども、往時のにぎやかさをほうふつとさせるものがある。 >大小3万もの献灯が光り輝き、浴衣姿の男女で溢れかえって、あちこちで自撮りが行われている。 >2010年代後半の一時期、ナンパが横行して屋台が中止されたことまであった。 >にぎやかな靖国と厳粛な靖国。 >どちらを本体と考えるかは一概にはいえないものの、8月15日の終戦記念日に行われている軍服コスプレ集団による行進も、あるいは先祖返りの一面もあるかもしれない。 >「神社参拝」は軍国主義的なのか? >こうした「下からの参加」の痕跡はあちこちに残っている。 >神社の境内に立つ忠魂碑や顕彰碑のたぐいがそうだ。 >それ以外にも、社号標が著名な文化人の揮毫(きごう)だったり、鳥居が町内会の献納だったりする。 >最後に、それに関係する最近のできごとに触れておきたい。 >2023(令和5)年の元旦、立憲民主党の泉健太代表(※当時)が、東京の乃木神社に参拝したとツイッターで公表したところ、左派系のアカウントから批判が殺到した。 >戦前の軍国主義を象徴する乃木を崇めるのは、日本国憲法に立脚しようとする、リベラル政党の代表としていかがなものかというわけだ。 >さきほども述べたように、乃木希典は明治天皇に殉死した陸軍軍人であり、忠君愛国のシンボルだった。 >そのような古めかしい存在に違和感を覚えるひとも多いだろう。 >とはいえ、ただ乃木神社を参拝しただけで、祭神を礼賛したわけでもないのに、戦前回帰を望む軍国主義者のようなレッテル張りをするのはいただけない。
そうですね。レッテル張りは歌詠みのようなもので意味がない。日本人の歌は文になっていないから意味がない。正しさもなければ、間違いもない。
>というのも、こんなことをやりだすと、今後あらゆる政治家のブログなどをさかのぼって、その初詣をやり玉にあげるという不毛な流れになりかねないからである。 >たとえば、日本共産党の小池晃書記局長は過去に、東京品川の鹿嶋神社への参拝を公表している。 >その祭神はタケミカズチだ。 >つまり、アマテラスの意を受けて、オオクニヌシに国譲りを迫った武神である。 >これも国体思想の賛美で、平和主義に反すると責めるのだろうか。 >また、筆者が同社におもむいて調べたところ、社号標は皇紀2600年に立てられたもので、ジャーナリストで歴史家の徳富蘇峰が揮毫していた。 >蘇峰は戦時中、大日本言論報国会や日本文学報国会の会長を兼ねた。 >これも軍国主義的だと叩くのだろうか。 >これまでみてきたように、神社は戦前と深く関わっている。 >そしてそこに立つ記念碑や顕彰碑は数しれない。 >そんなものをいちいち精査しはじめると、ほとんどどこの神社にも参拝できなくなってしまう。
レッテル張りは不便なものですね。日本人の社会は風評の世界ですね。人々の判断に根拠がない。盲目の判断と言うことになる。
>歴史はわれわれの日常に複雑に絡み合っているのであって、まるで外科手術で癌細胞を取り除くように、都合よく切り離せるものではない。 >多少、不愉快で同意できないものがあったとしても、適度に妥協しながら付き合っていくことが求められる。
日本人はつかみどころのない人間ですね。
>本書の解説も、そのような適切な付き合いに資すればと考えている。 >一部分だけ切り出して、「戦前、戦前」と騒いでも意味がない。
そうですね。意味がなくても力を入れる。それが日本人の残念な所です。浅薄そのものです。
>問題なのは、祖先より代々という物語でわれわれを戦争に駆り立てることなのである。
そうですね。付和雷同による災難ですね。[付和雷同: 一定の見識も無く、ひたすら他人の説に賛成すること]
(略)
日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。それは日本語が写生画の言葉だからである。 世界観は非現実の内容である。人は相手の世界観を理解してその人を信用する。世界観の無い日本人は信用されない。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。 英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。 英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。 子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。
英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。 未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。 意思を表すと加害者意識も経験することになる。 それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。 深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。 事故の原因究明がうやむやにはならない。
魂の救済を必要とする人も出て来る。 贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。 こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。 だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。 日本語は現実の内容だけを話す言語である。 日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。 だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。 嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。 難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。 世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。 「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO) 日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。 日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。
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