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2016年03月03日(木) 

   神仏の存在を信じることが出来ない私は、信仰とは魂の救いを求める人達が自分たちを救ってくれるものがほしい…と神仏を創り出し、その存在による救いを信じることだろう…と思っています。それで救いを得られた人は幸せです。私のとっては羨ましいことです。…といっても私は格別救いをほしがっているわけでもありませんが。

 

   kata0133さんが 2016.02.20のブログで引用された加賀乙彦の「科学と宗教と死」を読み、感じたことを述べます。

 

   この本には著者がキリスト教信者になるまでの経緯、洗礼後の心の動きなどが詳説されています。

著者はあるキリスト教信者の死刑囚の影響を受けてキリスト教への関心が高まり、キリスト教に対する疑問を友人の神父にぶっつけ、朝から晩まで、二日半の問答によって目からうろこが落ち、神父からも洗礼を薦められたようです。

 

   その後、福音書に書かれたイエスの奇跡も信じるようになったそうです。

   また仏教への知識も広め、輪廻の思想にも共感を覚えたようです。

 

   科学(著者は医学技官)に精通すると、自然には科学では理解できない不思議がますます強まって来、神の存在を信じるようになったとか。

 

   彼の生き方は立派だと思います。しかし、私は同じようには歩めないと思います。多分、私の屁理屈を捏ねる性格が邪魔するのでしょうね。

 

   宗教に対する疑問もしくは飲み込めない事象について質問し、全てに回答を貰っても、目からうろこ!とはならないでしょうね。例えば奇跡とされる事件がもし実在しても、それは偶然に起こったこであって、神の意志に依る…と思うことは私には無理です。人の心の中で創造された神のどこに意志があるのか、意思は神経の作用ですが、その神経システムはどこにあるのか。手も足もない存在が事象をどうやって起こすのか、事象を起こすメカニズムがどう動かされるのか、不信者が納得できる説明が可能とは思えません。

 

   この著者もそうですが、一旦信仰の道に入ると自分の信心の浅いことを恐れるようです。これも私は判らないが、信心が深いほど救われ方も大きいのですかね。信じる者は救われる。

 

   著者はビッグバン以前の宇宙が科学で解明できないゆえに神の存在を思わざるを得ないそうですが、ビッグバン以前にも神が存在し、ビッグバンに神が関与している(著者はその関与については触れていませんが)ことはどうやって説明するのでしょう。

 

   南無阿弥陀仏をとなえてさえいれば天国に行ける? 何故?

 

   …といった具合で私は信仰の道にはいれそうにはありません。神に見放された哀れなる者なのでしょうね。別に僻んではいませんが。

 

   著者は原発廃止派です。理由は原発事故が科学への過信によりもので、その為に謙虚でなくなった…というものです。その理由は納得ですが、そこから原発反対は飛躍し過ぎです。

 

   自動車が実用化されてから、原水爆による死者よりも遥かに大勢の人が自動車のために亡くなりました。最近になってやっと自動ブレーキだとか自動運転などの安全技術の開発が見直されてきたようです。

 

   原発だって、その危険性を押さえる技術が完成すれば人類の幸福のための有用なエネルギー源となる筈です。

 

   原発への賛否は兎も角、一度この本を読んで信仰について考えて見ることはいいことだと思いますよ。

 

.


閲覧数2,093 カテゴリ日記 コメント7 投稿日時2016/03/03 09:30
公開範囲外部公開
コメント(7)
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  • 2016/03/03 10:04
    南無阿弥陀仏で行き先は「天国」では無く「極楽浄土」です。
    阿弥陀如来が、極楽浄土へ導く他力本願だと思ってます。
    次項有
  • 2016/03/03 16:02
    鉛筆コッチさん
    > 【とっちゃん】さん

    確かに迂闊でした。

    キリスト教でも仏教でも、信じるか念仏を唱えることにより救われる…とすべきだったようで。

    しかし、私には天国と極楽浄土の相違についてはよく判っていません。ネットでは両者の区別についてあれこれ説明はされてはいますが…。

    .
    次項有
  • 2016/03/03 22:05
    昨日お通夜に行った先は曹洞宗でした。
    「南無釈迦にぶつ」(変換しない)と3回唱えてチンチンチンと鳴らせばお経はいらないと言われてました。。。
    シンプルでいいなと思いましたです。
    次項有
  • 2016/03/04 08:55
    鉛筆コッチさん
    > うさきょんさん

    主催者とは異なる宗教もしくは宗派の人も拘りなく同じ念仏を唱える風習は面白いですね。宗教によっては他宗教の葬儀への参列を拒否することもあるようですが。

    お経や念仏がシンプルな場合、喜ぶ人とお座なりだ…と不服に思う人とがいるようですね。

    .
    次項有
  • 2016/03/03 23:11
    ヒッチさん
    自己の有限、無能、罪悪性に目覚めたら、念仏するしか、無かった。
    仮令念仏して、不幸に為ろうとも。しあわせは、求めていませんよ。
    次項有
  • 2016/03/03 23:44
    ヒッチさん
    利用規約に有りますので、布教的なブログは、控えます。
    特に布教するつもりは、有りまっせん。信教は日本では自由です。
    次項有
  • 2016/03/04 08:58
    鉛筆コッチさん
    > kata0133さん

    >念仏するしか、無かった

       そういう念仏もあるのですね。

       布教の意図はなく、ブログをアップした人に単に自分の宗派の立場からコメントするのは一向に構わない…と私は思いますがね。

       日本では他宗教や他宗派に対して寛大(鈍い?)ですから。

    .
    次項有
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