神仏の存在を信じることが出来ない私は、信仰とは魂の救いを求める人達が自分たちを救ってくれるものがほしい…と神仏を創り出し、その存在による救いを信じることだろう…と思っています。それで救いを得られた人は幸せです。私のとっては羨ましいことです。…といっても私は格別救いをほしがっているわけでもありませんが。
kata0133さんが 2016.02.20のブログで引用された加賀乙彦の「科学と宗教と死」を読み、感じたことを述べます。
この本には著者がキリスト教信者になるまでの経緯、洗礼後の心の動きなどが詳説されています。 著者はあるキリスト教信者の死刑囚の影響を受けてキリスト教への関心が高まり、キリスト教に対する疑問を友人の神父にぶっつけ、朝から晩まで、二日半の問答によって目からうろこが落ち、神父からも洗礼を薦められたようです。
その後、福音書に書かれたイエスの奇跡も信じるようになったそうです。
科学(著者は医学技官)に精通すると、自然には科学では理解できない不思議がますます強まって来、神の存在を信じるようになったとか。
彼の生き方は立派だと思います。しかし、私は同じようには歩めないと思います。多分、私の屁理屈を捏ねる性格が邪魔するのでしょうね。
宗教に対する疑問もしくは飲み込めない事象について質問し、全てに回答を貰っても、目からうろこ!とはならないでしょうね。例えば奇跡とされる事件がもし実在しても、それは偶然に起こったこであって、神の意志に依る…と思うことは私には無理です。人の心の中で創造された神のどこに意志があるのか、意思は神経の作用ですが、その神経システムはどこにあるのか。手も足もない存在が事象をどうやって起こすのか、事象を起こすメカニズムがどう動かされるのか、不信者が納得できる説明が可能とは思えません。
この著者もそうですが、一旦信仰の道に入ると自分の信心の浅いことを恐れるようです。これも私は判らないが、信心が深いほど救われ方も大きいのですかね。信じる者は救われる。
著者はビッグバン以前の宇宙が科学で解明できないゆえに神の存在を思わざるを得ないそうですが、ビッグバン以前にも神が存在し、ビッグバンに神が関与している(著者はその関与については触れていませんが)ことはどうやって説明するのでしょう。
南無阿弥陀仏をとなえてさえいれば天国に行ける? 何故?
…といった具合で私は信仰の道にはいれそうにはありません。神に見放された哀れなる者なのでしょうね。別に僻んではいませんが。
著者は原発廃止派です。理由は原発事故が科学への過信によりもので、その為に謙虚でなくなった…というものです。その理由は納得ですが、そこから原発反対は飛躍し過ぎです。
自動車が実用化されてから、原水爆による死者よりも遥かに大勢の人が自動車のために亡くなりました。最近になってやっと自動ブレーキだとか自動運転などの安全技術の開発が見直されてきたようです。
原発だって、その危険性を押さえる技術が完成すれば人類の幸福のための有用なエネルギー源となる筈です。
原発への賛否は兎も角、一度この本を読んで信仰について考えて見ることはいいことだと思いますよ。
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