>■今、企業には出る杭が求められている >私たちは子どもころから従順であることを刷り込まれてきました。>学校では「いい子で先生の言うことを聞くこと」を求められました。>親も「いい子にしてた?」「ちゃんと先生の言うこと、聞いた?」って言うしね。
従順な子供は、親たちの宝物でしたね。
>「自分の意志で行動した?」なんて言う親は稀だと思います。>だから、大人になっても自発性がないのは当然だと思うのです。
日本人には意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。英文法には、時制があるので、英米人には意思がある。 意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だから、意思があれば自発性がある。意思のない日本人は仕方なく、無為無策でいる。だから、日本人には自発性がない。 日本人には、意思はないが恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。恣意は文章にならないから、意味もない。したがって、説明責任が取れない。恣意による自発は危険である。’理由なき反抗’ か、’自由のはき違え’ になる。
>何かと世間を騒がせている財務省ですが、先月、財務省の入省式の様子がテレビで流れ新入職員代表の方が次のような挨拶をしていました。>”法令および上司の職務上の命令に従い職務にあたることを固く誓います。”>きっと添削されたか上司が作ったものを読まされたんだろうと思いますが、これが「立派な挨拶」とされているところに問題の本質が表れていると思います。
法令違反・職務違反があったら困りますね。立派な宣誓です。
>これがもし「例え上司の命令であっても、それが国民のためになるか自分で判断して職務にあたります」なんて言ったら「出る杭」ですよね?
それは、異常事態が発生した場合ですね。理由になる行為ですね。’国民のため’ という自己判断には、職責は関係ないでしょうね。
>でも、今は出る杭の存在が必要だと思います。
そうですね。賢い ‘出る杭’ が必要ですね。自己の内容を公表することが必要ですね。恣意的であっては困る。独断にならないように、開かれた議論の場が必要でしょう。
>これまでは成長の方向に向かう順調な流れがあり、それに「いい子で」乗っていれば良かったかもしれません。>でも、これからは違います。>何がどうなるか分からない時代、正解が誰にも分からない時代、そんな考えでは誰かの「被害者」になってしまいます。
我々には、自己の正解を持つことが必要ですね。さすれば、お互いに議論が出来ます。不毛の議論が避けられます。
>人の集団は基本、賢いです。>ただ従順という思考停止に陥るとバカになります。>誰が聞いても「そりゃおかしいだろ!」という意思決定をしてしまう。
そうですね。日本人には意思がない。だから、意思決定にならずして、恣意決定になる。理由が立たず、「そりゃおかしいだろ!」ということになる。
>集団はそうなりやすい側面を持っています。
そうですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。 「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>そこに異論を唱える人が必要なのです、それが上司が決めたことであっても。
そうですね。たとえそれが上司であっても、集団であっても。第二の意見が必要ですね。
>■文句を言わず従うか文句があるなら代替案を考える >社員は誰しも会社への不満を1つや2つは持っています。
上意下達ですね。我々の理想 (非現実) は、頭の中にある。現実の内容は、頭の外にある。両者は所在が違うから、同じにはならない。それが不満か、不満にならないか。
>ただタイプが3種類あると思っています。 > 1つは「被害者」です。>自分がこんなに可愛そうなのは会社が「◯◯してくれない」「会社(上司)のここがおかしい」「うちの会社には◯◯がない」… >「くれない病」「おかしい病」「ないない病」を社会人の三大疾病と呼んでいます(笑)>言っている事に間違いはなくても、現状は一向に改善されません。
そうですね。日本人には、意思がない。だから、積極策がない。加害者意識はなく被害者意識だけがある。恨みばかりが増大する。
>2つ目は「評論家」です。 >居酒屋に行くとたまに遭遇しますが、何の解決策も出さずに評論している人です。
論客は、’ああでもなければ、こうでもない’ と言っている。’あれではいけない、これではだめだ’ と力説する。だが、自分がどうであるかは、決して言わない。自分には、考えというものがないからである。にもかかわらず、彼はますます雄弁である。彼は、思考を停止して、受け売りの専門家になっているからである。わが国には、こうした評論家、コメンテータがわんさといる。 イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>3つ目は「主体者」で、三大疾病にかからずちゃんと提案ができる人です。
自分の意見を提案することは、難しいことですね。
(略) >これができる社員が増えると、社員は自由になれるし上司は自分の仕事に集中できるし会社は良くなるし、良いことずくめです。
それは、会社の責任者が責任をもって判断することでしょうね。
>ただ、その提案さえも拒絶する上司、社長もいると思います。
上司も社長もそれぞれに責任範囲を持っていますからね。拒絶にもそれぞれに理由があることでしょう。
>「そんなどうでもいいことを考えてないで予算達成のことを考えろ」と言われるかもしれません。
そうですね。自分の責任を果たせば、社員としては問題ありませんね。
>とても悲しいことですが、上司の立場になれば分かるかもしれません。>チームの予算達成のプレッシャーがあるために目先の事しか考えられなくなっているのかもしれない。>直近の課題のズレです。
部下が天下国家を憂い、上司が目先のことしか考えられない状態ですね。何人も自己の責任範囲を守ることが基本ですね。日本人には世界観がない。だから、専門分野に限らず、視野の広い内容を共通の話題にすることは難しいですね。来るべき世界の提案なぞは、誰も語ることがない。
>本来はそういう人は上司に向かないのかもしれませんが、それを言ったところで何も改善されません。
そうですね。それぞれの部署には、それぞれの責任者が責任を果たしていますからね。上司に向かない人は、会社が見逃さないでしょうね。会社の利益にかかわることですから。
>直近の課題は違うけれども会社を良くしたいと思っていることに変わりはないという寛大な視点を持つことだと思います。
会社をよくすることには、どなたも異存はないでしょうね。ただ、その内容については、それぞれ違ったものになるでしょう。
>相手の課題に理解を示すと受け入れてもらえる可能性が高まります。
意見交換は、必要ですね。ただ、意見のない人もいて、そういう人は、話に乗ってこないですね。ただ、自己利益にかかわる課題にのみ、執拗にくい下がります。
>その視点を持ったならば、例え今は報われなくてもいつか「選ばれる存在」になると思います。だってリーダーに必要な視点なのだから。
嬉しい予感ですね。だが、相手に指導性を発揮されるのを好まない人もいますね。
>社内から選ばれるか、社外から声がかかるかです。>それでもダメなら転職という方法もありますしね。
序列社会の序列の鎖には、つながれていない方がよいですね。社畜はあわれです。
>素敵な「出る杭」になって欲しいと思います。
素敵な ‘アイディア・マン’ のことですね。自己の内容を公表しましょう。黙っていたのでは、はじまらない。
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