>現代ビジネス >まさか…「昭和天皇」が「敗戦直前」に心配したのは「三種の神器」だった! >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) によるストーリー・ >9時間・ >神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。 >私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? >右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。 >さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。 >歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。 >※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。 >「三種の神器」を心配した昭和天皇 >もっとも、戦意高揚キャンペーンもむなしく、日本はジリジリとアメリカ相手に後退を強いられ、サイパン、フィリピンと敗退をつづけ、1945(昭和20)年には本土空襲の本格化や沖縄での地上戦を迎え、本土決戦も目睫(もくしょう)の間(かん)に迫る情勢に陥った。 >ことここにいたると、それまで積極的な作戦を求めていた昭和天皇も、三種の神器の心配をするようになった。 >あらためて確認すると、三種の神器とは、八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣(天の叢雲の剣)を指す。 >『古事記』および『日本書紀』の一書によれば、アマテラスがニニギに天孫降臨に際して与えたとされる。 >現在、八咫鏡は伊勢神宮内宮に、草薙剣は熱田あつた神宮にそれぞれ安置され、両者の形代(レプリカ)と八尺瓊勾玉が皇居(鏡は宮中三殿の賢所、剣と勾玉は吹上御所の「剣璽(けんじ)の間」)に安置されている。 >もっとも記紀には、三種の神器が皇位の象徴とは記されていない。 >また古代から同じものが継承されているわけではなく、1185(寿永4/元暦2)年、壇ノ浦の戦いで安徳あんとく天皇が入水したときに、草薙剣が失われるなどしている。 >そもそも「三種の神器」ということばの初出は、この入水を伝える『平家物語』だ。 >それでも三種の神器は、南北朝時代に大きな意味をもつようになった。 >というのも、北畠親房の『神皇正統記』のように、その所持者こそが正統な天皇だと主張されるようになったからである。 >実際に、南北朝が合一するときは南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が譲り渡された。 >明治維新後は、神武創業とうたいながら、三種の神器の見方はむしろ南北朝時代のものが継承された。 >すなわち、皇室典範には「祖宗の神器」とその承継が明記された。 >また天皇が一泊以上の行幸をする際には、草薙剣の形代と八尺瓊勾玉が携行された。 >これを剣璽動座という。 >昭和天皇は、この三種の神器の重みを信じていたようで、1945(昭和20)年6月に沖縄戦が終わって本土決戦が現実的になると、その安全を盛んに心配するようになった。 >7月25日、内大臣の木戸幸一(きどこういち)にこう述べている。 >軍は本土決戦で戦局を挽回すると唱えているが、これまでの経験上にわかに信じられない。 >もし作戦に失敗すれば、パラシュート部隊が降下してきて、大本営が捕虜になることもありうる。 >そこで真剣に考えるべきは、三種の神器だ──。 >爰(ここ)に真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持[し]得ざることとなるべし。 >之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。 >(『木戸幸一日記』下巻) >なんと昭和天皇は、国民の生命ではなく三種の神器のために講和の必要を訴えているのだ。 >そして同月29日に伊勢神宮のある宇治山田市が空襲されると、昭和天皇はますます悲観論に陥っていく。 >翌々日には、ふたたび木戸にこんどは具体的な避難プランについても語っている。 >先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種ゞ考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。 >(中略)万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。(前掲書) >三種の神器と運命をともにする。 >記紀ではそんなに重んじられていないのに──。 の「の氏 >神話にもとづくネタは、神道の最高祭祀者であるところの天皇自身も本気で信じるようになっていたのである。 >詔書から消された「三種の神器」 >したがって連合国に降伏するにあたって、政府関係者のあいだで三種の神器の心配がなされたのは無理からぬものがあった。 >1945(昭和20)年8月15日、大東亜戦争の敗戦は玉音放送により国民に広く知らされた。 >そのとき読み上げられた詔書が、戦争継続派の妨害に遭わないように大急ぎで起草・修正されたことは、半藤一利の名著『日本のいちばん長い日』でよく知られている。 >じつはこのときの詔書にも、もともと三種の神器のことが書かれていた。 >国立公文書館所蔵の「戦争終結に関する詔書案」をみると、草案では「神器を奉じて爾臣民と共に在り」という一節が入っていた。 >最終版の「朕は玆に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り」の「常に」の部分だ。 >ところが、それは結果的に削除された。 >その理由について、内閣書記官長(現在の官房長官にあたる)として文書起案にあたっていた迫水久常(さこみずひさつね)は、石黒忠篤(いしぐろただあつ)農相のつぎのひとことが大きかったと語っている。 >米国などは、いまなお、日本の天皇に神秘的な力があると信じている。 >にもかかわらず、こんなことを書き記しておくと、天皇の神秘力の源泉が三種の神器にあると考えるにちがいない。 >そうなると、連合国では、神器についてあれこれせんさくしないとも限らない。 >無用の混乱を防ぐためにもこの部分は削除したほうがよいと思う。 >起草者の気持ちはよくわかるし、日本国民の一人としては同感だが、やはり、削るほうがよいのではあるまいか。(『大日本帝国最後の四か月』) >わざわざ三種の神器について書くと、連合国が関心をもってしまうのではないかと懸念されたわけだ。 >これに閣僚の面々はみな同意し、神器云々は削除されることになった。 >アマテラスがニニギに与えたものなど存在するはずがないのに、そもそも三種の神器が重んじられたのは南北朝時代からなのに──とはやはりならなかったのだった。 >神話国家の終焉 >敗戦間際の指導者たちは、国体を守ろうと必死だった。 >そしてそのために、三種の神器を隠そうとした。 >だが、もとをたどってみよう。 >国体にせよ、三種の神器にせよ、近代国家を急造するための方便ではなかったか。 >明治の指導者たちは、神話を一種のネタとわきまえたうえで、迅速な近代化・国民化を達成するために、あえてそれを国家の基礎に据えて、国民的動員の装置として機能させようとした。 >その試みはみごとに成功して、日本は幾多の戦争に勝ち抜き、列強に伍するにいたった。 >しかるに昭和に入り、世界恐慌やマルクス主義に向き合うなかで、神話というネタはいつの間にかベタになり、天皇や指導者たちの言動まで拘束することになってしまった。 >ネタを守るために、国民の生命が犠牲にさらされる。 >もう戦局は絶望的なのに終戦は先延ばしにされて、沖縄では地上戦が行われ、広島・長崎には原爆が投下された。 >本土空襲で焼き払われた都市は数しれない。
好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日 残念ながらわが国は原爆開発においてアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕はまぬがれた。 めでたしめでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。 ‘ぬちだ宝’(いのちは宝)ではなかったか。
>ネタがベタになるリスクをこれほど物語るものもほかにない。 >とまれ、神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた大日本帝国という神話国家は、この敗戦により終焉を迎えることになるのである。 (略)
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。
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