>ダイヤモンド・オンライン >「Fラン大学に進学すrなら高卒のほうがマシ」は本当か? 学歴はどこまで意味があるのか? >びーやまによるストーリー・ >3時間・ (略) >Fラン大学に進学するなら高卒のほうがマシ? >――最近、「偏差値の低い大学に行くくらいなら高卒のほうがいい」という議論がよくされています。 >びーやまさんはこの比較についてどう思われますか? >びーやま氏(以下:びーやま):「偏差値が低い」というのをどこまで指すのかにもよりますが、中途半端に大学進学するくらいなら高卒のほうがいいという意見には賛成です。 > これは、偏差値の低い大学に価値がないということではなく、そういった大学に行く学生はあまりにも意識が低いことが多いため、大学に行くメリットを享受することができていないからです。
そうですね。
>――どういうことでしょうか。 >詳しくお聞かせください。 >びーやま:今の時代、選ばなければ誰でも大学には入れるようになりました。 >残念ながら「BF(ボーダーフリー)」と言って、偏差値がない定員割れ状態の大学も存在しますから、誇張ではなく大学全入時代と言えます。 >かつて学生が多かった時代と比べて、状況はがらっと変わりました。 > そのせいもあり、「勉強が大して好きでもないのに、なんとなく大学に行く」という学生が急激に増えました。 > その結果、勉強をしてこなかった学生が、受験でもまったく頑張らず、簡単に大学に入れるようになりました。 >これのどこに意味があるのでしょうか。 > 大学とは本来学問を学ぶ場です。 >勉強が好きでもない、やりたいこともない人が遊ぶ期間を延長するために行くところではありません。
そうですね。無哲学・能天気の人の行くところではありませんね。
> 加えて、そういった大学は就職でも「学歴フィルター」に間違いなく引っ掛かりますから、大卒であることのアドバンテージも残念ながらあまりないでしょう。 >大学に行くからには「本気」を見せろ >――なかなか手厳しいですね。 >びーやま:そうかもしれないですね。 >ただ、これまで僕も何度か「Fラン大」と呼ばれる大学の学生にインタビューを行ってきましたが、あまりにも無気力であることが多いと感じています。 >「やりたいこと? ないです」「勉強? 好きじゃないです」「大学? なんとなくきました」などのスタンスなのであれば、10〜20代の大事な時間を過ごすにはあまりにももったいないと思います。
そうですね。
> もちろん、なかにはやる気のある生徒もいますが、かなり少数ですし、そういった学力以外の別の事情で進学先を選んだりしていることがほとんどです。 > 早慶やMARCH、日東駒専など、知名度のある大学に通っている学生は、やはりそれなりに勉強をし、自分の将来も考えて行動しています。 >しかし、名前もあまり知られていない大学の学生は「特にやりたいこともないんで、とりあえず大学きました」というのが多すぎる印象です。 > そんなスタンスなのであれば、無理して大学に行く必要はありません。 >大学進学ではなく専門学校や就職などの道を検討したほうがいいでしょう。
そうでしょうね。
>――なるほど。 >進学のモチベーションが低いのがよくないということなんですね。 >びーやま:そうです。 >なので、本人が勉強を頑張って進学を決意した大学なのであれば、それはどんな大学でも進学したほうがいいと思います。 > ただ、本気で勉強を頑張れる人は先ほど名前をあげたような大学に受かっていきますから、これに関してはむずかしいところです。 >――たしかに、そもそもやる気のある学生は勉強もしますし、上のレベルに受かっていきそうですね。 >その意味では受験においての偏差値は重要ということでしょうか。 >びーやま:非常に重要だと思います。 >「偏差値は悪!」みたいな風潮がありますが、「本当に大学でやりたいことがあるのなら偏差値の壁くらいは突破しないと」と僕は思います。 > 大人であれば誰もが納得するでしょうが、大した結果もなしに「やりたいこと」を実現するのは社会では不可能です。 > 受験も同じで、決められた科目、決められた範囲からしか問題はでないわけですから、大学で学びたいのならその本気を見せる必要があります。 >そのわかりやすい指標が偏差値です。 >「僕は大学でたくさん勉強したいんです!」と偏差値30の人に言われても説得力に欠けますが、偏差値60の人が言ったら、それは本気であると誰もが思うでしょう。 > 繰り返しになりますが、「大学は行かなくてもいいところ」です。 >そんなところに「わざわざ」高いお金と4年間という時間をかけて行くわけですから、「やりたいこともない」「勉強もしない」のであればやめましょう。
そうですね。
> 誰もが大学に行ける時代になったからこそ、大学に行く意味は問われていると思います。 (略)
子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。 英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。 英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。 子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。
英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。 未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。 自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。 それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。 深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。 事故の原因究明がうやむやにはできない様な心構えになる。
魂の救済を必要とする人も出て来る。 贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。 こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。 だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。 日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。 日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。 だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。 嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。 難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。 世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。
「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO) 日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。 日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。
ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。 日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。 マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供の行く末と違う所である。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。 「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー) ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 日本人の無哲学・能天気はついに国際的にも知られるようになったようですね。
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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