幼い頃、一人で山に入って火を燃やしながら自分の心に宿った面影を夜一人で偲ぶ…なんていいなあ…と思ったこともあるようです。
実際に登山をしていて単独行が多かった私には一人っきりで夜の山を過ごすことが何度もありましたが、登山ではへばっていることが多いので、そのようなロマンチックな思い出の記憶はありません。
登山目的ではなく、誰かを偲ぶことを目的として、苦労なしに入れる山を選ぶべきでしょうね。昔は単独行での幕営と云えば居心地の悪いツェルトでしたが、今は一人で楽に組み立てられて軽いテントが売られているようです。
一人っきりで山の夜を過ごすことはその時々の状況にもよりますが、面白い経験です。今からでもいいから思い出しながら記録しておこう…と思います。まずは木曽駒ヶ岳です。
何時だったろう。1953年位の4月か5月、中央アルプスの駒ヶ岳(西駒、木曽駒)に一人で出掛けました。山の道具は進駐軍の放出の羽毛寝袋(朝鮮戦争で死体ヲドライアイスと一緒に日本に送る時に使用した…と云われている)、固形燃料、コッヘル、飯盒。あとは父親がヤミ食品の買い出しに使っていたドンゴロスのリュックとやはり父親の兵隊靴。皮の靴底には鋲などは打っていないのでツルツル。
上松駅から入った山の麓にはコブシの花が満開でした。
金懸小屋を過ぎたあたりから所々に雪が残っていました。どこまで行ったか、2,400米位まで登っていたのか、道は細い尾根を通らず右に捲いて雪の斜面に消え、その斜面の向こう上方に続いているのが見えていました。
このような場合は安全のために道を離れて尾根を行くべき…なんて知恵はその当時はまだありませんでした。落ちていた何かの枝を杖にしておずおずと雪の斜面をトラバース。斜面幅の三分の一も過ぎたでしょうか、足元の雪が崩れて、下方に横滑り。滑りながら俯せに身体を回して、持っていた枝を雪面に懸命に突き刺しました。少し勾配が緩やかになった所で、止まりました。
さて、そこから下に行くべきか、上に戻るべきか。下の谷沿いに踏み跡があるかどうか、また雪の状況も不明なので、上に戻ることにしました。道までどの位の時間がかかったか、記憶はハッキリしませんが、もう薄暗くなっており、疲労困憊していました。無人ではあるが屋根のある金懸小屋まで降りて行くと快適な夜が過ごせるだろうが、もうそこまでに元気はない。
道が林の中を通る所までおりて、道の真ん中で寝袋を出してビバーク。道端の雪をコッヘルにとって固形携帯燃料で溶かし、夕食としました。まだインスタントラーメンなどまだ世にない時代、何を喰ったのかの記憶はありません。
鼠でもいたのか、夜中に目が覚めると寝ている枕代わりの丸めたリュック横で何か動物がボリボリ何かを喰っている音がしていました。私は乾パンで夕食にしたのだったかしら。
朝、荷物を片づけて道を下っていくと、昨夜は金懸小屋で過ごしたのでしょう、キスリングを担ぎ、後にピッケルを指した、ほんものの登山スタイルの人が一人で登ってきました。私を見て怪訝な顔をしていました。西駒の頂上から下ってくる時間帯ではないのに…と思ったのでしょう。私は今日は!とだけ云って通り過ぎました。
麓まで降りて満開のコブシの下でタップリ昼寝をしてから上松駅に下りました。結構充実感があったような…。