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2014年05月10日(土) 
   東日本大震災の原発事故で居住地が避難地域に入ってしまった人たちはいずれ戻るかもうもう戻らないかが悩ましいようです。お気の毒なことです。

   さて自分だったらどう思うか、考えて見ました。どうも福島の人たちのような帰省本能は私にはないようです。

   生まれてこの方、頻繁に移住しましたが、最後はそこに帰りたい…という場所は見当たらない。西宮、伊丹、京都、堅田(大津)、山科、敦賀、池田(大阪)、榛原(静岡)、藤枝。それぞれでの生活を楽しんできましたが…。今居る静岡が格別にいい…という思いがあるわけではありません。しかし、現在静岡に自宅があって今更どこかに移るのも面倒なので居続ける積もりでいます。

   子供の頃に遊んだ里や丘がなつかしくて、望郷の思いに駆られる…なんて話があると羨ましくなります。その思いがそ人たち心の支えになっているのではないでしょうか。

   私にはそのような愛情が欠如しているのではないかしら…と気になっています。


   「どんな人間でも故郷を思慕する心をもたない人はいない、この故郷に憧れる心こそ、人の心の底から湧き出てくる清らかな泉であります。人の心の底にある故郷の心は、人間本来のやさしさの心です。」

   …なんて文章を読むと、私にはそのような人間本来のやさしさを持っていないことになるな…と悲しくなります。

   しかしよく考えてみれば、川で小ブナを掬ったことはあるが、山で兎を追ったことなかった。なつかしく思い出すような生活はなかったように思います。かなりあった田畑も今は住宅地。父母も私と同じ頃に都会に移ってしまったし(勿論今はあの世)、故郷に残っている幼友達もほんの僅かです。故郷に心を惹きつける対象が存在しません。

   さらに兎を追ったり小ブナを釣ったりする生活に私は何の魅力も感じないのです。現在の生活で充分に楽しい…とも云えますね。体が充分には動かない現在において充分に動かせたころが懐かしい…とは云えますが、程度の差こそあれ、高齢者の誰でもがそう思ってはいるでしょう。しかしそれは故郷とは無関係。

   望郷の感覚のないことは現代人の病か。わたしにはそうは思えない。

   私は詩人ではないのでそのような美辞麗句の酔ってしまったり惑わされたりすることへの耐性を十分に持っている…といえるのかも。健康だと思います。

   故郷の山川は開発により変化し、地震や洪水により崩壊する。大地なんて頼りないものだ。それを頼りに生きる…とは精神的な脆弱性を持っているように思えます。


   最後に住む可能性のある老人ホームや介護施設は静岡になると思われる。しかし南海トラフ地震で問題が出てくればサッサと惜しげなくよそに移るでしょうね。


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閲覧数1,272 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2014/05/10 06:07
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コメント(2)
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  • 2014/05/10 10:46
    イアンさん
    コッチさん

    社会人になってからは私もよく動きましたが、幼稚園から22歳ころまでは同じ所に住んでいました。京都の円町~白梅町の近くです。ですから、その間いろいろ思い出があります。友達絡みの懐かしい想い出は多く、今も小・中・高時代の友人が少なからず住んでいます。ところが場所にたいして故郷と言った感慨は全くありません。
    同窓会などの機会に近くに行くことはあるのですが、街並みは全く変わってしまっていて、懐かしい原風景にたどり着くことは出来ないのです。ですから私にも故郷はありません。
    次項有
  • 2014/05/10 22:12
    鉛筆コッチさん
    イアンさん

       都会で育つと「ふるさと」感覚は持ちにくそうですね。季節のお祭りや夜店…などの想い出はあるでしょうけれどね。イアンさんは「ふるさとは遠きにありておもうもの」と云うには近過ぎる所に住んでいるしね。

       イアンさんも、「ふるさと」なる美辞麗句にとらわれて客観性を失ったり変な所に執着したりすることのない現代人なのだと思います。


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