さすがに博識なコッチさんですね。
わたしなど、読むだけで精一杯です。
教育を、受けていないなあと思います。
今からでも、言語能力を身に着けたい。
こんな感想しか書けません。
若い時勉強してないと損ですね。
草なぎ(なぎは弓ヘンに前の旧字体その下に刀)事件についての私の日記 http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…?id=560067 ![]() 確かにその事件(昭和28(あ)1713)にはその定義が記載されていましたが、それは「昭和26年(れ)172 昭和26年5月10日 最高裁第一小法廷」の判決から引用されていました。しかしその判決文は簡単なもので、詳細が記載されていないので、状況は不明です。 ①いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反する この3条件全てを満たせばそれは猥褻なのです。 しかし、昭和26年(もしくはそれ以前)になされた定義です。定義自体は今も通用してもおかしくはないようにも思いますが、具体的な内容、例えば性欲を興奮又は刺激させる対象のレベル、普通人の正常な性的羞恥心がどの程度のことで生じるか、善良な性的道義観念の内容などは当時とはすっかり変わっているでしょうね。 上記「昭和28年(あ)1713 最高裁判所大法廷 昭和32年03月13日判決」の中身は面白いです。裁判官も真面目に判決文を書くためには、哲学的思考能力が必要であると痛感しました。真面目な判決文です。動物に対応させて人間の持つ羞恥心について論じています。また道徳の維持について、教育と宗教と法律の責任についても簡単に触れています。これを書いた裁判官にはやや気負いもあるようです。 レベルの低下の最も激しいのは教育の力だと私は思っていますが。 その二カ所を下に引用します。私なりに反論もありますが、取りあえずご紹介を。 判決文を読まれたことのない方には面白いと思います。この判決文はレベルが高いように思います。いつもの如く長い日記になって申しわけありませんが。 ………… 要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される. およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の主にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである.羞恥は同情および畏敬とともに人間の具備する最も本源的な感情である.人間は自分と同一なものに対し同情の感情を、人間より崇高なものに対し畏敬の感情をもつごとく、自分の中にある低級なものに対し羞恥の感情をもつ.これらの感情は普遍的な道徳の基礎を形成するものである. 羞恥感情の存在は性欲について顕著である.性欲はそれ自体として悪ではなく、種族保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である.しかしそれは人間が他の動物と共通にもつているところの、人間の自然的面である.従つて人間の中に存する精神的面即ち人間の品位がこれに対し反撥を感ずる.これすなわち羞恥感情である.この感情は動物には認められない.これは精神的に未発達かあるいは病的な個々の人間または特定の社会において缺ていたり稀薄であつたりする場合があるが、しかし人類一般として見れば疑いなく存在する.例えば未明社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである.要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露である.かような羞恥感情は尊重されなければならず、従つてこれを偽善として排斥することは人間性に反する.なお羞恥感情の存在が理性と相俟って制御の困難な人間の性生活を放恣に陥らないように制限し、どのような未開社会においても存在するところの、性に関する道徳と秩序の維持に貢献しているのである. ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺激し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる.そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している.もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない.かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に明し重要な意識をもつ遺徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである.刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする. ………… 中略 ………… なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである.現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである.また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた.つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である.しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない.それは前に述べた性行為の非公然性の原則である.この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著しい社会通念の変化は認めのである.かりに一歩譲って相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないめないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない.けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならめのである. 以下略。 お疲れ様でした。 |