1,973万kW/2,829万kW (07/04 21:35)
69%
■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
https://www.sns.ochatt.jp/blog/blog.php?key=680929
2010年03月27日(土) 
   私は死後の世界の存在を信じてはおらず、身体が焼却されて脳も神経も存在しない状態で、個人の喜びや苦痛、記憶などが存在するとは思えません。臨死体験についての大きな実験を企画した人がいたので、私は関心を持っていましたが、その後の報告は見あたらず、研究費が集まらなかったのだろうと諦めています。

   宗教の存在はいいことと思っています。人生への指針や現世での平常心を与えてくれることで存在価値はあると思うし、自分で自分を律することの難しい人は宗教がその機能を果たしてくれるでしょう。その中で死後の世界を引き出すことは問題ないと私は思っています。それに対して私は関心なしです。

   このような私でも父母のお葬式はやりましたし、何ステップかの法事はやっています。これは死者へのお弔いと云うよりは、残った者の心の平静の為です。

   しかし、そのコストは高いですね。

   ある本の広告によれば 日本の葬式費用は231万円。英国12万円、韓国37万円、米国44万円だそうです。金額が高さと死者への弔い心の高さ、死者とのお別れをつらく思う気持ちの高さとの間に相関はあるとは思えません。

(この231万円は日本消費者協会の調査によるものであり、真実ではない…との批判もあるようですが、30何年か前の父の葬儀では抑えてもその位は掛かったように記憶します。葬儀屋への支払い以外に戒名代、お持てなし用飲食費用、僧侶へのお布施、納骨なども大変でした。お位牌も必要だし…。)

   お葬式以外にも初七日に始まり、三十三回忌まで15回の法要があり、丁寧な場合は百回忌までするのだそうです。最近は100歳を越える人が増えて来ましたが、お葬式の時にすでにある程度記憶力を備えていて、100年後にも死者を覚えている人が実在することはめったにないでしょうね。

   先日義父がなくなった娘の嫁ぎ先では49日まで毎週お坊さんがお祈りに来るようです。大変です。

   もっとも個人の場合と、社葬・国葬などでは比較にはならないでしょうが。

   遺族の心の問題でしょうから合理化せよ…と云う訳にはいきませんが、なるべくならそれほどコストの掛からない方法が一般的になってほしいものです。

   自分の場合どうするかそろそろ考えて置かねば…と思っています。近くにいる子供や孫だけで済ませ、後日親戚・知人・御近所に知らせることにしようかしら。死後に配って貰う、これまでのご厚意に対する謝辞を考えておきたい。北海道にいる末っ子はどうするか。事前相談が要りますね。

   そろそろ外出が億劫になって来ている遠方の弟や妹とはどうするか、連絡して参加し合うかどうか、相談して決めておかなくては…。

平成15年の日本消費者協会の葬儀費用について調査では、
日本の葬儀代の平均は
葬儀費用一式 150.4万円
飲食接待費用 38.6万円
寺院の費用 48.6万円
葬儀費用の合計 236.6万円 となっています。

閲覧数1,468 カテゴリ日記 コメント8 投稿日時2010/03/27 02:36
公開範囲外部公開
コメント(8)
時系列表示返信表示日付順
  • 2010/03/27 21:26
    ヒッチさん
    少なくとも、仏教と葬式・霊魂不滅は関係有りません。
    宗祖は言いました。「それがし閉眼せしのちは、賀茂川に投じて
    魚の餌とすべし」

    私は仏教は哲学であると、思っております。

    異義を唱える方、お寺さんも有るのを覚悟の上で
    申し上げます。

    最低でも、信心と葬式は無関係です。
    次項有
  • 2010/03/28 01:06
    鉛筆コッチさん
    kata0133さん

    こんばんは

    仏教と葬式(現在日本で行われている形式のもの)は関係ないでしょうね。チベット仏教では一部で鳥葬もおこなわれているようですから、「それがし閉眼せしのちは、賀茂川に投じて魚の餌とすべし」と同じことでしょうね。

    霊魂不滅の方は私にはよく判りません。古代エジプトから現代西欧にまで霊魂不滅の思想はありますし、日本の仏教でも少なくとも一部の宗派では来世に言及しています。

    「信心」は、私が上で使ってはいますが定義がよく判りませんが、そうですね、お葬式とは直接には関係ないでしょうね。

    ある所に「妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供をたよりにし、子供は親をあて力にして生きております。
    その他、自分の身体や生命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位等、何かをあて力にして人間は生きております。
    だから生きるということは信ずることなのです。」とありましたが、これを信心と云うなら、私にも少しは信心の心はあります。

    しかし、「今死ぬという時でも変わらぬもの、それは三世諸仏をして成仏せしめた本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。この御仏を信ずるものこそ、永遠不滅の無上絶対の幸福で生き抜くことができるのです。」とまで云われると、私は不信心だろうと思います。そもそも「永遠不滅の無上絶対の幸福」なるものが不可解です。

    仏教でもキリスト教でも、宗教はある意味では哲学であり人生訓であり、そこでの懺悔は反省に基づく苦しみからの解放なのでしょうね。

    それを信じることを信心と云うなら、この点でも少しは信心の心は私にもありますね。


    鳥葬も加茂川での魚葬も、日本では違法行為ですからお金がかかりますね。お坊様はケースバイケースでしょうが、葬儀屋さんによるお世話が必要なようです。
    次項有
  • 2010/04/08 10:57
    korochanさん
    コッチさん

    はじめまして、お邪魔します。

    私は、最近義父を亡くし、四十九日を、つい先日済ませた者です。

    義父は、宇治地元の人で、息子二人も近所に住み、実姉や、他の
    親戚も近住のため、また、義父がお寺の総代などもしていたらしく、四十九日まで、本当に大変でした。

    一応義父の死は、「覚悟の死」(わかってた死)だったので、
    みんなに驚きはありませんでした。
    (いつまで、持ってくれるか~)

    亡くなった日、お通夜(友引などのため3日後に)、告別式
    初七日などの行事を通して、
    本当に、いろいろ思うこと、いっぱいでした。

    当事者は、やる事(やらなければいけない事)いっぱいで、
    悲しんでる暇(?)もないって感じでした。

    お葬式っていうのは、改めて「セレモニー」なんだと感じました。
    義父にお別れをしたい、しなくっちゃという人のために
    設けられてるのだと

    義父は、地元の教育者だったので、たくさんの方が
    参って下さいました。

    でも、初七日までにかかった費用は、4百万近くでした。
    (告別式の時、お坊さんを5人呼んだというのもあると思います)

    お義父さんの供養だから・・・と
    でも、やはり残った者の心の平安のためにやってるのだと
    思います。

    これで良かったのかと・・・
    もちろん、私は、息子の嫁なので、何も口を出す立場には
    いませんが・・
    いろんな事は、思いました。
    次項有
  • 2010/04/09 02:07
    鉛筆コッチさん
    korochanさん  こんばんは!

    もう四十九日を終えられましたか。娘の嫁ぎ先はまだ終わらず、毎週お坊様が来るので、義母一人では大変だと、毎週25キロほどをぶっ飛ばして通ってきています。

    告別式の時、やはりお坊様五人でした。そうですか、400万円も掛かるのですか。

    故人が現役か退役後かにもよるでしょうが、地区の名士だと退役後でも大変ですね。密かにやると後からクレームが来そう。

    最近、お茶っ人のMIYUさんもお母様を亡くされましたが、お父様が名士だったようで、セレモニーの大変さで、逆に気丈で居れたような気配でした。

    遺族が来世の存在を信じている場合は天国への長の旅路に耐えられるように、この世からお金を掛けて後押しで助けて上げる…として納得するのでしょうが、信じないものには周りに恥ずかしくい思いをしなくて済むだけの為に贅沢をしたような気になりますね。

    質素なセレモニーが普通になって欲しいです。

    あちこちの会社の役員をやっていた義父の場合でも現役を退いて何年も経っていたので、友人代表一人と家族など十数人で自宅のマンションの居間でやりました。義母の話では大分経ってからポツリポツリと聞きつけた人がお線香を上げに来てくれるので、それぞれの人とゆっくりとお話ができてよかった…と言っていました。

    私の場合も簡単にしたい。それでもお坊様は一人位は呼ばないと格好が付かないかも知れませんね。役所への届け出や焼き場の申し込み、棺桶の用意や入棺などがあるので葬儀屋さんの手を借りる必要はありそう。北海道にいる末っ子の一家四人は、私が生きている間は来て欲しいが、葬式などには来なくていいよ…と云う積もりです。

    お墓はもうあるので、散骨するよりはお墓に入れる方が楽でしょうね。
    次項有
  • 2010/04/09 11:23
    korochanさん
    コッチさん

    義父は、「死んだら、この人に頼め!」と、言う人があったようです。(妻や息子では、もうひとつ頼りにならなかったのでしょうか)
    ですから、その人と葬儀業者と息子で、葬儀の段取りが決まって
    いきました。

    地元の小さい新聞2社に記事を出しました。(もちろん有料)
    (たぶん、これは、その人が載せな!と言われたようです。)
    その新聞自身どちらも、記事を書きました。(無料)
    そして、京都の地方紙にも記事が載りました。(無料)

    それがためか、沢山のお参り客がありました。

    お坊さんは、3人(父は、先妻さんを病気で亡くしており、
    そのとき、お坊さんを3人たてたのだそうです。
    お坊さんが台帳を調べて、そうおっしゃいました。
    だから、それ以下ではと・・・)たてることになって、
    たのですが、市長が「弔辞を述べたい!」言われたので、
    何故か、3人から5人にグレードアップしたのです。
    (意味不明)

    お坊さん一人に、だいたい20万かかるそうです。

    家の近所のお寺のお坊さんは、父に進められて、お坊さんに
    なる決心をしたそうです。
    中3の時、自分のお父さんが病気になり、寺の存続を決めかねてた
    時(自分がやるか、潰すか、他の人を雇うか)、三者択一を迫られてた時「とにかく、あんたが、勉強して、修行してやってみー」と
    促したそうです。
    七日ごとのお経、説話の後で、いろんな話をして帰られます。

    お坊さんにはお坊さんの思いがあります。

    きっと、だから、父の生きたあり様の、また、父の望んだ葬式が
    出来たのだと思います。

    法要後の精進落としも、父がいつも利用してた料理屋さんで
    行います。

    でも、「無駄」もいっぱいあったと思います。
    そういったことも含めて、遺族は(特にお義母さん)は、
    背負って行くのでしょう。

    (MIYUさんの気持ちよくわかります)

    でも誰もが、確かにお義父さんには、お世話になりました。

    葬式あれこれです。
    次項有
  • 2010/04/10 01:37
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

      再度のコメントを有り難うございます。

       色々ありますね。

       故人の云ったことを私が守ったかどうか故人にはわかりっこないのでどうでもいいや…と来世を信じない私は思いますが、普通は云われた通りにして上げたい気になるのが人情でしょうね。

       故人が死後のことを言い置いていくのは、生きていた時のその人たちへの信頼と感謝の気持ちなのだと推測します。したがって、云われた通りにして、さらに故人の言いつけなので…と云ってお願いするのが故人の信頼や感謝の気持ちがそ人たちに伝わると思います。

       私の父の場合(もう40年近く前ですが)、何も判らず聞いてもいない私は父が作成した住所録を頼りに片っ端から連絡し、前に務めていた会社にも連絡したら新聞記事に入れましょうか…と聞かれ、お願いしました。4つほどの新聞に記事として出ていました。

       父の務めていた会社、定年後に務めた大学、公害関係の総まとめを父が担当していた県、私の会社などから花輪が届き、家の前はパチンコ屋の開店日のようになりました。最近はみっともない花輪はなくなって、生花になりましたね。

       葬儀屋さんは病院から遺体を運んでくれたところに依頼しました。

       今になって思えば、無意味に派手な葬儀だったと反省しています。

       私の場合は参加者最大20人まで、なるべくなら10人に絞るように云っておく積もりです。近くに住んでいる娘と上の坊主の家族だけでも8人になります。札幌に住む下の坊主一家を入れると12人になり、2人オーバーです。坊主一人で来ればいい。

       遠くにいる弟と妹とはどうするか。もう数年もすれば二人とも旅が億劫になるはずです。会いたければ生きている間に頻繁に会おうよ、死んでからはもういいよ…と云っておこう。

       家内が先に逝った場合のことも聞いておかなくては。

       告別式ってどうなのでしょうかね。故人にお世話になった人が集まってやるものなのか、故人がお世話になって謝意を表したい人に集まってもらって遺族が代わって謝辞を述べるものなのかです。

       前者だと死後にも魂が残っていてこそ意味があるのですが、後者だと生前の気持を死後に表現する訳ですから死後の魂には関係ありません。

       一般的には前者が意図されているように思いますが、私は後者の意味づけがいいな。家族しか集めないのは、他人はお互いに持ちつ持たれつだったでしょ…と云う訳です。

       たかが葬式、されど葬式…。こだわることもないのですが、ムダなことはしたくないし…。
    次項有
  • 2010/04/10 07:00
    korochanさん
    コッチさん

    再度お邪魔します。

    「告別式ってどうなのでしょうかね。
    故人にお世話になった人が集まってやるものなのか、
    故人がお世話になって謝意を表したい人に集まってもらって遺族が代わって謝辞を述べるものなのかです。」

    後者だと、故人が余命いくばくもないとわかった時点で、まだ頭がしっかりされてたら、何らかの方法で、お礼とかお別れを告げられたらいいと思います。

    前者だと、生前、お見舞いとか、訪ねるとかいう方法で、心の中で、お礼やお別れを言えても、面と向かっては、余程親しくない限り、口に出しては言えません。

    だから、死去の通知があると、「お参りしたい、せねば」に
    なると思います。

    中には、遺族たちとの関係で、お参りされてる方々も多いと思います。いわゆる「私、お参りにきたでー」です。

    いろんな意味で、無駄を省くため、最近は、家族葬や密葬が流行っているのかもしれません。

    義父の「りっぱな葬式やったで」で、いったい誰が満足するのでしょう。

    故人の遺志は、大きな効力を発揮します。自分の望む葬式を
    予め伝えて置くと、家族は、出来るだけ、それにそうように
    すると思います。

    葬式考でした。
    次項有
  • 2010/04/10 11:07
    鉛筆コッチさん
    korochanさん

    何度でも大歓迎です。

    >中には、遺族たちとの関係で、お参りされてる方々も多いと思います。いわゆる「私、お参りにきたでー」です。

       だからいやーな気分になるのです。故人には無関係に来る人たちです。私の職場の人の場合、記帳だけでは見落とされることを心配するのでしょう、わざわざ私の前にやってきて、「仕事のことは心配しなくていいからね」。お前が私の代わりにやるのなら、これは心配だわ…。

        てんてこ舞いの遺族のお手伝いに来てくれる人たち。参加者を絞ればお手伝いは不要です。

    >故人が余命いくばくもないとわかった時点で、まだ頭がしっかりされてたら、何らかの方法で、お礼とかお別れを告げられたらいいと思います。

       死ぬ前には喧嘩していた相手には特に告げにくいですね。私は終わりが近いと思えば、周囲の人たちへの生前の付き合いへの謝辞を書いておき、忌み明け後に発送することを依頼しておこうと思っています。その後も生き続ければ、二人の関係も変化して来るでしょうから、時々訂正が要るでしょうね。それによって相手のことを考える時間が増えて、自分の中での相手がより濃厚な関係となり、意味深い余生になると思います。何人分書けるかですが。

     感謝の気持ちをより表したい人から順番に書くことになるのでしょうね。

      >義父の「りっぱな葬式やったで」で、いったい誰が満足するのでしょう。

       私が考えるように来世がないなら、葬儀内容を知り得ない本人でないことは確かです。葬儀をやったかどうかも知り得ない。
      立派な葬儀をやりたければ、自分で資金を出して、自分で生前葬をやればいい。

    私の葬儀考です。
    次項有
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
コッチさん
[一言]
■この日はどんな日
ほかの[ 03月27日 ]のブログは、
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み