人は死ぬ時は必ず孤独ではないのか。医師に看取られていようと、一人っきりのアパートの部屋で1人で息絶えようとしていても変わらない。家族に囲まれて逝くときだって、1人で死んでいく。自分の死への恐怖、身体の苦痛を思い遣ってはもらえているかも知れないが、同じ感覚を分け合うわけにはいかない。自分一人っきりだけのものだ。
家族に囲まれて逝く時は、皆とのお別れに紛れてその瞬間は若干孤独を忘れさせてくれるかも知れない点が相違するかな。
津波で夫婦が手を取り合って流され、もうダメだ…と互いに分かれを告げる時は孤独とは言い難いかもしれない。
最近、孤独死なる言葉が流行。しかし、上記孤独とは孤独の意味が異なる。
魂の状態と物理的な環境状態に同じ表現を使用されるとややこしくなって仕方ない。
最近の日本では誰にも気づかれずに死亡し、死亡後何日も経過してから発見される死に方が多い。個人情報の過保護や無縁社会がもたらした結果。「孤独」に哲学的意味を持たせたい私はこれらを孤独死と呼ばないでほしい。
一人で住んでいることは独居と表現できる。その時に周囲の人に見守られながら自立し、自由に生活できているか、周囲から遊離して周りの人からその存在を忘れられているかどうかである。前者の場合の死を自立死・独立死、後者を疎遠死・孤立死・放任死と呼べば?)
米国では地方行政とボランティアやNPO法人による高齢者の生活援助システムが十分に機能しており、外出不可能な障害者でも、ある程度のことが自分で出来る限り周囲から面倒を見て貰っていても自由と自立の確保ができているそうだ。子供に面倒を見て貰うことを拒否して自分の尊厳を維持しようとする老人が多いようだ。
矢部 武 著 「ひとりで死んでも孤独じゃない」 新潮新書
サテ我が夫婦、どちらが先立つかは不明だが、年齢や生活力から見れば私が先。私が残って、家事のかなりの部分をこなせなくなったとき、どのような支援が得られるようになっているかしら。毎日、夕食は配達してくれる私企業はあるようだが…。
私より一周り以上若い、同じ職場にいた後輩。独身を通したのでお金があまっていたのでしょう、定年を何年か前にして退職して行きました。彼が昨年非常時のケアーサービス付きの高齢者専用住宅に引っ越しました。格別、身体に問題あるような話しは聞いていないが。
「近くに来られたら、是非お立ち寄りください。」と云ってきているので、一度様子を見に行ってみるかな。