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2013年01月25日(金) 
   人は死ぬ時は必ず孤独ではないのか。医師に看取られていようと、一人っきりのアパートの部屋で1人で息絶えようとしていても変わらない。家族に囲まれて逝くときだって、1人で死んでいく。自分の死への恐怖、身体の苦痛を思い遣ってはもらえているかも知れないが、同じ感覚を分け合うわけにはいかない。自分一人っきりだけのものだ。

   家族に囲まれて逝く時は、皆とのお別れに紛れてその瞬間は若干孤独を忘れさせてくれるかも知れない点が相違するかな。

   津波で夫婦が手を取り合って流され、もうダメだ…と互いに分かれを告げる時は孤独とは言い難いかもしれない。

   最近、孤独死なる言葉が流行。しかし、上記孤独とは孤独の意味が異なる。

   魂の状態と物理的な環境状態に同じ表現を使用されるとややこしくなって仕方ない。

   最近の日本では誰にも気づかれずに死亡し、死亡後何日も経過してから発見される死に方が多い。個人情報の過保護や無縁社会がもたらした結果。「孤独」に哲学的意味を持たせたい私はこれらを孤独死と呼ばないでほしい。

   一人で住んでいることは独居と表現できる。その時に周囲の人に見守られながら自立し、自由に生活できているか、周囲から遊離して周りの人からその存在を忘れられているかどうかである。前者の場合の死を自立死・独立死、後者を疎遠死・孤立死・放任死と呼べば?)

   米国では地方行政とボランティアやNPO法人による高齢者の生活援助システムが十分に機能しており、外出不可能な障害者でも、ある程度のことが自分で出来る限り周囲から面倒を見て貰っていても自由と自立の確保ができているそうだ。子供に面倒を見て貰うことを拒否して自分の尊厳を維持しようとする老人が多いようだ。
矢部 武 著 「ひとりで死んでも孤独じゃない」 新潮新書

   サテ我が夫婦、どちらが先立つかは不明だが、年齢や生活力から見れば私が先。私が残って、家事のかなりの部分をこなせなくなったとき、どのような支援が得られるようになっているかしら。毎日、夕食は配達してくれる私企業はあるようだが…。

   私より一周り以上若い、同じ職場にいた後輩。独身を通したのでお金があまっていたのでしょう、定年を何年か前にして退職して行きました。彼が昨年非常時のケアーサービス付きの高齢者専用住宅に引っ越しました。格別、身体に問題あるような話しは聞いていないが。

   「近くに来られたら、是非お立ち寄りください。」と云ってきているので、一度様子を見に行ってみるかな。

閲覧数1,783 カテゴリ日記 コメント6 投稿日時2013/01/25 09:23
公開範囲外部公開
コメント(6)
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  • 2013/01/25 10:29
    いつだったか、テレビで独身を通してきて、優雅な老人ホーム生活を送っておられる女性がこう語っていました。
    「孤独死なんていうけれど、所詮人は一人で生まれて一人で死ぬのよ。私がどうしてここにいるかって?若い時に苦労と努力をした成果よ。どうせ一人で死んでいくにしても優雅に死にたいの。だからここにきたの。たいした努力もしないでホームに入れないなんて言うんじゃないわよ。」

    色々な生き方がありますが、色々な死にざまもありましょうや。
    一概に「孤独死」とは言われたくないし、そうでない気もいたします。
    次項有
  • 2013/01/25 13:59
    わさびさん
    私も「孤独死」の報道に疑問を感じていました。
    人はみんな1人で死んでいくし、その場に立ち会う人がいなかったとしても
    その人は、たくさんの人に愛されていたのかもしれない。

    「孤独死」
    本当に、誰からも愛されず気にもかけてもらえず・・・だったとしたら。

    人とのつながりは、努力が必要。
    いただくだけではいけません、まずは、こちらから。
    そう思っているのですが・・・。
    次項有
  • 2013/01/25 22:14
    鉛筆コッチさん
    うさきょんさん

       豪華な施設で、生活そのものは不自由はなくサポートされていても、それだけでは幸せかどうかは判らないですね。問題は人との心の交流(書物、手紙、e-メール、SNS、お茶会)が持てているかどうかでしょうね。

       独居していても、上記交流手段が使えれば、孤立感は持たないでしょうね。

       私の云う孤独はそれでは解消しませんが…。

    次項有
  • 2013/01/25 22:20
    鉛筆コッチさん
    わさびさん

    こんばんは!

       確かに、死後何日も気づかれなくても、その人が生前不幸だったかどうかは判らないでしょうね。人との精神的繋がりがあればいい訳ですね。昨年は「絆」が流行りましたね。

       待っているだけでは繋がりはできないかも知れませんね。自分から繋がるために出て行かなくては。
    次項有
  • 2013/02/02 21:23
    CONTAXさん
    コッチさん、

    昨年末のことですが、おしゃれなご婦人が授産品販売のコーナーに来られて買い物をしてくださいました。
    立ち話しで2時間ほど話し込みましたが、ひとり住まいで介護付きの高齢者施設に入居されたようですが、設備は整っていても、一日中そこに居ることには耐えられず、毎日のように宇治市まで来ているとのことでした。

    授産品販売のお手伝いなどして人との繋がりを持ちたいとも言われましたので、障がい者施設を紹介したところ、毎日のようにそちらに出向かれて、障がい者と一緒に、手作り品を作ったり、販売を手伝ったりされています。
    年末には、いい出会いから楽しい日々を過ごしてます、とお礼の電話を頂きました。

    もう80を少し過ぎたくらいのお方でしたが、明るく朗らかでなにごとにも積極的なお方です。
    こんな方はひとり住まいでも孤独死はされないのでしょうね。
    次項有
  • 2013/02/03 01:01
    鉛筆コッチさん
    CONTAXさん

    生活には不自由はなくても、人との繋がりは必要でしょうね。それさえあれば独居していても心は豊かだと思います。

    CONTAXさんもいいお手伝いをされましたね。

    そのお方がパソコンを使えるようなら、お茶っ人を紹介して上げることもできるでしょうが…。
    次項有
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