階上の寝室で目覚めたのは七時半。障子をあけるとガラス窓のむこうに、庭と林が見えた。階下におり、やや熱いシャワーを使う。それから二十分の自彊(じきょう)体操。 (中略)
ボトル四つをのせたカートを引いて林の向こうの農家へ水をとりにゆく(水道は出るのだが、茶にはもっといい水がほしいのだ。)。
居間と台所(キッチン)のストーブに点火。茶器と煮豆の皿をとりだし、薬缶(やかん)にボトルの水をつぎ、ストーブにかける。すべてをのろのろ行っている。
(中略)
炉端に薬缶を移して座りこむ。 小さな蝋燭(ろうそく)に火を点じる。
その炎に、火箸ではさんだ香炭団(たどん)をかざし、それから香壺の灰のなかに置く。それに沈香(ちんこう)の細片をそっとのせる。匂いに鈍感な男だから、よほど気を向けないと、香りをたのしめない。今朝もわずかに感じたていどだった。
それから玉露の茶を小さな急須に入れて、好みの薄手の茶碗でのむ。ややうまし。煮豆を口にする。八十人翁三浦景生(かげお)さん作の良寛詩茶碗と棗(なつめ)をとりだす。茶こしの網に新しい茶を入れて、ヘラで網下にこし落とし、棗に入れてから、すこし休む。
ベランダのむこうの庭には、サンシュユと梅が咲きはじめていて、その黄と紅の花はまだ淡いが、あたりを明るくしている。また煮豆を口にしたあと、景生碗で茶を点(た)てて、二服する。しかし味のよさを感じない。水は、農家の井戸からくんできたものだし、湯加減もいい。すると新しく替えた茶のせいか。 (中略)
やや失望して炉端から立ちあがり、ベランダに出てゆく。
西向きの大きなガラス仕切りの前に坐って、庭の馬頭観音(ばとうかんのん)像に礼拝する。久しぶりに、中央アルブスの連峰を眺める。白雪の峰が空をかぎつてつづく。その前に斑(まだら)雪と唐松(からまつ)のまじる低い山々、近くには濃い緑の赤松の丘。 (中略)
キチンに入り、ジューサーにキナコ、ゴマ、バナナ、ヨーグルト、ハチミツを入れ、蓋を押さえて三十秒廻し、それからレタス、キュウリ、ピーマン、玉ネギを薄切りにしてポールに盛って、フエター・チーズを散らす。オリーヴ・オイル、ワインビネガー、塩、こしょうをかけてまぜる ― 私はこのシーザー風サラダを(中略)、好きになったのである。黒いドイツブレッド二片、バターとゴーダ・チーズ、アール・グレイの紅茶をポットにつくり、すべてをベランダのテーブルに運んだ。
朝飯である。雪の連峰を眺めながらの朝食である。
隅のカセット機にゆき、ラックから一枚を選ぶ ― ベートーベン 『クロイツエル・ソナタ』と『スプリング・ソナタ』。となりには筒形の花瓶にマーガレットの花々が生けてある。そのガラスの大窓のむこうに白い山々が連なってみえる。
はじめのソナタが鳴っている間にジュース、サラダ、パン、紅茶と移ってゆく。ソナタの激しい終章のころに朝食が終わる ― ふと不思議な満足の心が湧く。
ああ、こういう一刻(いっこく)を持っていること、そのこと自体生きているという自覚なのかもしれぬ。
『スプリング・ソナタ』が優しく響きはじめても坐ったままだ。少し風が出て、枯れた芒(すすき)がゆれている。
紅茶を掩れなおし、シンガポール空港で求めたチョコレートの残り片をかじり、これを書いた ― なぜならこの騒がしい世に、こんな静かな一刻(ひととき)をひとり楽しんでいる男がいる ― そのことを伝えたくなったからだ ― 誰に? と問われれば、あなたに、と言いたい。偶然にこの記を読むことになったあなたに ― 。
いま、私を見ているのは、庭の観音像だから、彼女に挨拶を送って、『スプリング・ソナタ』 の終わりかけている時、筆を置く。
…………………
加島祥造著「ひとり」(淡交社)の中の一節である。彼のいうAlone, but not lonly (ひとりだ、でも淋しくはない)の生活だ。
このような朝食にクロイツエル・ソナタやスプリング・ソナタがふさわしいとは思えず、私ならパレストリーナやジョスカンデユプレの曲、中世の教会音楽などをかけるが、人それぞれ、それはどうでもいい。
何にも急かされず、一瞬一瞬を味わいながら自分のペースで過ごすこと、これは素晴らしいことに思えます。TVのニュース番組と朝刊の両方に目を配りながら、前に座している家内の話かけにも応じながらの朝食……とは随分違いますね。
しかし、わざわざこのように書いている…ということは、毎日がこの ペースではなさそうに思えます。
ここでは家事・雑事が書かれていない。筆を置いた時刻は正午に結構近い筈だ。寝室は万年床か。シャワーの後始末、お茶や食事の片付け、部屋の掃除、買い出し、洗濯、昼食や夜食の準備…。多分それらを頼める人は週に何日か来るのでしょうね。食材その他のかなりの部分は取り寄せのようだが…。
多くの人は自活できる場合はいずれ一人暮らしとなる筈です。この様に一人暮らしを楽しめればいいですね。
加島祥造を引用した日記が増えてしまいました。もう止めよう。
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