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2015年04月19日(日) 
   階上の寝室で目覚めたのは七時半。障子をあけるとガラス窓のむこうに、庭と林が見えた。階下におり、やや熱いシャワーを使う。それから二十分の自彊(じきょう)体操。  (中略)

   ボトル四つをのせたカートを引いて林の向こうの農家へ水をとりにゆく(水道は出るのだが、茶にはもっといい水がほしいのだ。)。

   居間と台所(キッチン)のストーブに点火。茶器と煮豆の皿をとりだし、薬缶(やかん)にボトルの水をつぎ、ストーブにかける。すべてをのろのろ行っている。

        (中略)
   炉端に薬缶を移して座りこむ。 小さな蝋燭(ろうそく)に火を点じる。
 
   その炎に、火箸ではさんだ香炭団(たどん)をかざし、それから香壺の灰のなかに置く。それに沈香(ちんこう)の細片をそっとのせる。匂いに鈍感な男だから、よほど気を向けないと、香りをたのしめない。今朝もわずかに感じたていどだった。

   それから玉露の茶を小さな急須に入れて、好みの薄手の茶碗でのむ。ややうまし。煮豆を口にする。八十人翁三浦景生(かげお)さん作の良寛詩茶碗と棗(なつめ)をとりだす。茶こしの網に新しい茶を入れて、ヘラで網下にこし落とし、棗に入れてから、すこし休む。

   ベランダのむこうの庭には、サンシュユと梅が咲きはじめていて、その黄と紅の花はまだ淡いが、あたりを明るくしている。また煮豆を口にしたあと、景生碗で茶を点(た)てて、二服する。しかし味のよさを感じない。水は、農家の井戸からくんできたものだし、湯加減もいい。すると新しく替えた茶のせいか。  (中略)


   やや失望して炉端から立ちあがり、ベランダに出てゆく。
               
   西向きの大きなガラス仕切りの前に坐って、庭の馬頭観音(ばとうかんのん)像に礼拝する。久しぶりに、中央アルブスの連峰を眺める。白雪の峰が空をかぎつてつづく。その前に斑(まだら)雪と唐松(からまつ)のまじる低い山々、近くには濃い緑の赤松の丘。 (中略)

   キチンに入り、ジューサーにキナコ、ゴマ、バナナ、ヨーグルト、ハチミツを入れ、蓋を押さえて三十秒廻し、それからレタス、キュウリ、ピーマン、玉ネギを薄切りにしてポールに盛って、フエター・チーズを散らす。オリーヴ・オイル、ワインビネガー、塩、こしょうをかけてまぜる ― 私はこのシーザー風サラダを(中略)、好きになったのである。黒いドイツブレッド二片、バターとゴーダ・チーズ、アール・グレイの紅茶をポットにつくり、すべてをベランダのテーブルに運んだ。

   朝飯である。雪の連峰を眺めながらの朝食である。

   隅のカセット機にゆき、ラックから一枚を選ぶ ― ベートーベン 『クロイツエル・ソナタ』と『スプリング・ソナタ』。となりには筒形の花瓶にマーガレットの花々が生けてある。そのガラスの大窓のむこうに白い山々が連なってみえる。

   はじめのソナタが鳴っている間にジュース、サラダ、パン、紅茶と移ってゆく。ソナタの激しい終章のころに朝食が終わる ― ふと不思議な満足の心が湧く。

   ああ、こういう一刻(いっこく)を持っていること、そのこと自体生きているという自覚なのかもしれぬ。                                               
   『スプリング・ソナタ』が優しく響きはじめても坐ったままだ。少し風が出て、枯れた芒(すすき)がゆれている。

   紅茶を掩れなおし、シンガポール空港で求めたチョコレートの残り片をかじり、これを書いた ― なぜならこの騒がしい世に、こんな静かな一刻(ひととき)をひとり楽しんでいる男がいる ― そのことを伝えたくなったからだ ― 誰に? と問われれば、あなたに、と言いたい。偶然にこの記を読むことになったあなたに ― 。

   いま、私を見ているのは、庭の観音像だから、彼女に挨拶を送って、『スプリング・ソナタ』 の終わりかけている時、筆を置く。

…………………

   加島祥造著「ひとり」(淡交社)の中の一節である。彼のいうAlone, but not lonly (ひとりだ、でも淋しくはない)の生活だ。

   このような朝食にクロイツエル・ソナタやスプリング・ソナタがふさわしいとは思えず、私ならパレストリーナやジョスカンデユプレの曲、中世の教会音楽などをかけるが、人それぞれ、それはどうでもいい。

   何にも急かされず、一瞬一瞬を味わいながら自分のペースで過ごすこと、これは素晴らしいことに思えます。TVのニュース番組と朝刊の両方に目を配りながら、前に座している家内の話かけにも応じながらの朝食……とは随分違いますね。

   しかし、わざわざこのように書いている…ということは、毎日がこの ペースではなさそうに思えます。

   ここでは家事・雑事が書かれていない。筆を置いた時刻は正午に結構近い筈だ。寝室は万年床か。シャワーの後始末、お茶や食事の片付け、部屋の掃除、買い出し、洗濯、昼食や夜食の準備…。多分それらを頼める人は週に何日か来るのでしょうね。食材その他のかなりの部分は取り寄せのようだが…。

   多くの人は自活できる場合はいずれ一人暮らしとなる筈です。この様に一人暮らしを楽しめればいいですね。

   加島祥造を引用した日記が増えてしまいました。もう止めよう。

.


閲覧数1,564 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2015/04/19 09:39
公開範囲外部公開
コメント(4)
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  • 2015/04/20 11:24
    MIYUさん
    コッチさん

     コッチさんのご紹介がなければ知らずにいたであろう人ですね。
    いや姜尚中の筋から知ったかな?

     交わる点を(もちろん双方向ではなく)持たない人ですもん。

     感想は「ふ~~~~ん」かな。

     コッチさんはちょっと憧れてますよね?!(微笑)
    次項有
  • 2015/04/20 16:26
    鉛筆コッチさん
    MIYUさん

       駒ヶ根・中沢における上記のような生活(89歳の時のもののようです)にあこがれてはいますが、要支援に認定された私にはしんどい生活のようです。彼自身も結構世俗的な活動もしているようですし…。彼は「ええ格好しい」だと思っています。

       彼が説く老子(タオ)については私のかねてからの考えに一致しているので、そこでは共感しています。

    http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30

    .
    次項有
  • 2015/04/20 21:49
    NOSSYさん
    男のわがままを貫いているということでちょっと常人にはできないことです。
    生き様が瀬戸内寂聴と似ていますね。
    家族を捨てて、別の異性と交遊して自分の思いを遂げることができて、しかも社会から一定の評価や信奉者も得て悔いはないでしょう。

     しかし捨てられた家族の思いはどんなでしょうね。
    次項有
  • 2015/04/20 23:54
    鉛筆コッチさん
    NOSSYさん

       加島祥造の離婚の過程についてはよく知りませんし、格別の関心もありません。(ただ、彼の息子さんは伊那の彼の家に時々泊まっていくようですよ。) 伊那の彼の生活はうらやましいですが、彼の生き様に賛成している訳ではありませんから。

       自分のわがままを通すことと家庭を維持することのどちらを重要視するかは人それぞれの価値感に依るでしょうね。

       私の場合、それほどはっきりと維持したいと考える自我(生き方)がある訳ではありませんから、家族を捨てることは出来ませんね。

       しかし、家内に訊いてみる必要があるかも知れません。結構、家族を犠牲にしている…と答えるかも。現役時代は仕事優先でしたから。

    .
    次項有
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