私のキャッチフレーズの一つは「円熟しないで角張って生きよう」です。E-メイルの下の署名・住所・アドレスなどに並べていくつかのキャッチフレーズを入れています。
歳をとると何でも面倒になってしまって、人と争うことをしなくなります。角が取れて、いわゆる円熟するわけです。全てがよきに計らえ…と社会においての主体性を消していきます。居るのか居ないのか判らない存在になって行きます。活発な人は他人の知らない所で趣味三昧の生活に入ります。隠遁する訳です。次第に周囲から忘れられた存在になって行きます。静かに余生を生き、人知れずに去っていきます。一つの生き方でしょう。
【別の生き方】
人の考え方に異論があれば議論を吹きかける。邪な権威に対しては猛然と闘争を仕掛ける。あれもやりたいこれもやりたい。角を取るよりはますます角を尖らしてあちらこちらに引っかかりやすくしている。右に行って突き飛ばされれば、跳ね返って右にいた人を付き転がす。
上のように意識的にぎくしゃくやっていると小さな引っかかりからシステムの中に誰も気付かなかった大きな問題を見つけ出すことが時々あります。「ぎくしゃく」することも決してマイナスではない。
いつも周囲に目を配り、おかしいと思うことがあればすぐに声をあげる。間違いを見つけると警告する。困っている人がいれば手をさしのべる。落ち込んでいる人の前では喜んで道化役者を演じる。
両者の人生にいい悪いがあるとは思いませんが、私は後者でいる方が生きているという印象を受けます。人には迷惑をかけることも多々ありそうですが、許して貰える程度でしょう。一方、他人への奉仕もタップリです。五月蠅い爺さんと敬遠されることも多いかと推測されます。しかしメリットを理解して近寄ってくる人も多いです。人の役には立っています。
年がら年中騒々しくしたい訳ではなく、時々は孤独を噛み占めたり、鼻糞を穿りながら物思いに耽ることある…との前提で。
社会に悪事をはたらくことは絶対にしない積もりだが、多少の迷惑は我慢してほしい。音楽会にウン万円も払いたくないので、極くたまに家で大音響を愉しみたいし、周囲の人の安全を脅かさない場合に限って公道を数10キロオーバーで突っ走る快感を味わいたい、サーキットでスピードを出しても面白くないので。時には相手に致命的にはならない範囲で人をいじめて、相手が困惑する所を眺める愉しみも味わいたい。
逝く時は家族やまわりの人たちへの感謝の言葉を述べて大往生を遂げたい気もあるが、格好付け過ぎのような気もする。まだ死にたくないよ…と喚く方が、楽しい人生であったようにも思えるし、また最後までそのように現世に未練を持ち続けたくもある。
私は死後の世界の存在を目下信じてはいない(多分この問題は最後まで解決しない)ので、死ねばすべては元の木阿弥の筈ですからどっちだっていいのですがね。
いずれにしても、少なくとも逝ったときに人から残念がられるようではありたい。
角熟とは誰かがどこかで使っていた言葉を戴きました。いろんなキャッチフレーズを使っていますが、そのいくつかを、名前や住所、アドレス部分を削除して貼り付けます。全部入れると、お茶っ人の画像限界の480px×480pxでは小さくなって読めなくなるので。お茶っ人を経由しないでメールをやりとりしている人はもう見飽きているでしょうが。

現在使用中

正式な従業員だったころに使用

これは上の趣旨とは無関係ですが、会社で使用中。品質工学についてはいつか解説しましょう。