こう言われた時に、傍らの者はどう対応すればいいのだろう。
直接的には何もして上げられることはない。本人の気分の問題だから。
間接的には不安要因を聞き出すか、状況判断で原因を探して取り除くことは可能でしょうが、果たしてそれで解消するものかどうか。
自分の一生は充実していて、すばらしいものだった、思い残すことは何もない…と思える人はこうは言わないだろうな。それを忘れた人、充実したと思えない、悔やむことばかりの人生を送った人なのかも知れない。これは自分のこれまでのすばらしさを忘れた人にはそれを思い出させてあげる、自己評価により悔やんでいる人には再評価して素晴らしかった…と思い込ませるしかない。
高齢になって、逝く前にやり終えたいことがある人は不安は持つだろうな。しかし、その場合は生きている間にやり終えることができた時点で、不安は消える。
自分の一生の記録を残しておきたいなどの仕事を完成させたい…とか、連れ合いの最後を自分が看取って上げたい…とか、ある問題を解決してから逝きたい…とか。
知能を含め、身体の機能が衰えていくことへの不安;
こればかりは如何ともし難い。若い内から努力することで防げるのかどうか。防げるとしても若い時にその余裕がなかった人はどうするか。
経済的な生活維持への不安(医療費、生活費);
これは全てが国費負担になれば解決する。あるいは、自分でタップリ準備するか。問題はタップリあると云えるのかどうか、どの位あれば安心できるのかが判らない点に問題がある。
来世に対する不安;
来世を信じ、宗教を持っている人には不安はないと推測します。
私は来世の存在するとは思っていないので眠りのつくことと差がないと思っている…といって日々の就寝と同じようには目を閉じることは難しいだろうが。
病による苦痛への不安:
私の最後はガンに苦しむ可能性が高いので、モルヒネをタップリ使って貰おう。今はホスピスが大分根付いてきているので、昔に較べれば随分不安は減ったものと推測します。
逝くこと自体が不安な人;
これも年齢に依らない筈だが、加齢と共にいつかが判らないままに確実にその時期が近づいてくることにより不安が高まると思われる。神仏を信じることができれば、そのもとに行ける時が近づいてくると言う喜びが高まってくる訳で、信仰のメリットの一つだろう。
私は若い頃、死に対する恐れはなかった。いつでもいいですよ…と、山を登っている頃に思った記憶がある。今は当時に較べるとそうはいかない。別に不安はないが、まだ死にたくないよ…と思うようになったのは人間として退歩したのか。
年を取って行く事は年齢に関係なく一律である。年と共により長い人生を歩むことになり、より長い人生経験を得ることになる。それが嬉しく楽しい事であれ、悲しくつらいことであれ、新しい経験を重ねることを喜びと感じることができればいいのだが。
我が一生…どんどん味わい深いものになりつつあるわい…と。