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2009年09月24日(木) 
こう言われた時に、傍らの者はどう対応すればいいのだろう。

  直接的には何もして上げられることはない。本人の気分の問題だから。

 間接的には不安要因を聞き出すか、状況判断で原因を探して取り除くことは可能でしょうが、果たしてそれで解消するものかどうか。

自分の一生は充実していて、すばらしいものだった、思い残すことは何もない…と思える人はこうは言わないだろうな。それを忘れた人、充実したと思えない、悔やむことばかりの人生を送った人なのかも知れない。これは自分のこれまでのすばらしさを忘れた人にはそれを思い出させてあげる、自己評価により悔やんでいる人には再評価して素晴らしかった…と思い込ませるしかない。

 高齢になって、逝く前にやり終えたいことがある人は不安は持つだろうな。しかし、その場合は生きている間にやり終えることができた時点で、不安は消える。

自分の一生の記録を残しておきたいなどの仕事を完成させたい…とか、連れ合いの最後を自分が看取って上げたい…とか、ある問題を解決してから逝きたい…とか。


知能を含め、身体の機能が衰えていくことへの不安;

  こればかりは如何ともし難い。若い内から努力することで防げるのかどうか。防げるとしても若い時にその余裕がなかった人はどうするか。


経済的な生活維持への不安(医療費、生活費);

  これは全てが国費負担になれば解決する。あるいは、自分でタップリ準備するか。問題はタップリあると云えるのかどうか、どの位あれば安心できるのかが判らない点に問題がある。


来世に対する不安;

来世を信じ、宗教を持っている人には不安はないと推測します。
 私は来世の存在するとは思っていないので眠りのつくことと差がないと思っている…といって日々の就寝と同じようには目を閉じることは難しいだろうが。


病による苦痛への不安:

 私の最後はガンに苦しむ可能性が高いので、モルヒネをタップリ使って貰おう。今はホスピスが大分根付いてきているので、昔に較べれば随分不安は減ったものと推測します。


逝くこと自体が不安な人;

 これも年齢に依らない筈だが、加齢と共にいつかが判らないままに確実にその時期が近づいてくることにより不安が高まると思われる。神仏を信じることができれば、そのもとに行ける時が近づいてくると言う喜びが高まってくる訳で、信仰のメリットの一つだろう。

 私は若い頃、死に対する恐れはなかった。いつでもいいですよ…と、山を登っている頃に思った記憶がある。今は当時に較べるとそうはいかない。別に不安はないが、まだ死にたくないよ…と思うようになったのは人間として退歩したのか。




年を取って行く事は年齢に関係なく一律である。年と共により長い人生を歩むことになり、より長い人生経験を得ることになる。それが嬉しく楽しい事であれ、悲しくつらいことであれ、新しい経験を重ねることを喜びと感じることができればいいのだが。  
 我が一生…どんどん味わい深いものになりつつあるわい…と。

閲覧数1,590 カテゴリ日記 コメント5 投稿日時2009/09/24 23:50
公開範囲外部公開
コメント(5)
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  • 2009/09/25 06:26
    さん
    お名前:

    コッチさんずっと考え続けています。


     過去は変えられない他人は変えられない。自分自身が今日を生きるしかないんだ。

     自分は結局どうあがいても自分自身の器を超えては生きられないんだ。

     こうおなかをくくっちゃえばけっこう楽になれるかなと思い始めています。

     「明日世界がほろぶとしても私は今日木を植える。」

    てなかんじですかね。

     88歳の親には「こんな年になれたらたら毎日毎日生きているってだけでも立派にアートだと思う」

     とわけわからん(笑)賞賛を奉っています。

     真剣な顔でいうと「ぷぷぷっ」と吹き出してくれますから。

     




     
    次項有
  • 2009/09/25 06:43
    MIYUさん

    コッチさんまたこうなりました。私の特技かしら(笑)
    次項有
  • 2009/09/26 00:22
    鉛筆コッチさん
    MIYUさん

    私の日記は外部にも公開されるように設定しています。

    先日、ゲストコメント受付を可能にする設定があるのに気付いて、それを可能にする設定にしました。

    早速外部の訪問者のコメントが入ったわい…と読んで見ると、何だか変。  MIYUさんの特技だったのですね。



     確かに過去そのものを変えることはできませんが、自分のなかの見方や評価基準を変えると、自分自身にとっての過去の意味は変わってくるし、それにより先行きの方向性も変わってくる可能性があると思っています。

     器の実寸は同じでも主観的な大きさは代わり得ます。小さく評価して小さな安らぎを得ていてもいいし、同じ入口に沢山詰め込む努力をすることもあり得るようにも思います。それがいいかどうかは別の話でしょうが。

    どうやろうと死ねば全て同じ。来世を信じる人には現世の生き方が三途の川が渡れるかどうかに影響する問題でしょうが、信じない人には関係なし。

     どうすることが自分にとって、最も安らげる人生になるかです。やはり犯罪を犯して、残りの人生を牢獄で過ごしたり、人を不幸に陥れるようなことをやって心に痛みが走っていたりすると、安らぐことは私にはできない。できる人もいるとは思いますが。

    >「明日世界がほろぶとしても私は今日木を植える。」

    安定した境地ですね。私は明日死ぬことが判ったら、今日中に何をしておこうかとウロウロしそうです。ただ自分が逝くだけなのと、世界がほろぶのでは大分意味が違うようですが。
    次項有
  • 2009/09/26 06:02
    さん
    お名前:

     ブレインストーミングなんて言葉が古びたストックルームから出てきました。(笑)

     稚拙ながらにひとまとまりつけたところであっさり突き崩されたぁ(笑)

     評価ですね。評価。

     これが安定しないんです。たぶんうぬぼれすぎたり自己否定の極みまで行ったりしていると思います。ワタシ

     ご迷惑をかけない範囲でうぬぼれて生きていたいんですけどね。

     あ・・・両親の人生を高く評価してあげることも安らぎにつながるのかな。


     



     

     
    次項有
  • 2009/09/26 11:23
    鉛筆コッチさん
    外からの訪問者さんからの2通目のコメントを戴きました。

    人が「まとまりつけたところであっさり突き崩」すようなことを、不安がっている人にやってはいけないことでしょうね、元気な人にはドンドン…。

    人には自尊心がありますから、「うぬぼれて生きていたい」筈です。言葉は悪いかもしれませんが、おだててその気にさせることも重要ではなかろうかと思っています。悪い意味での「おだて」とは思われないようにする注意は必要でしょうが。
    次項有
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