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2012年01月09日(月) 
2.観自在菩薩の三つのお働き

●2-1 観自在―――知恵

   さて、ここからが肝心なところなのです。では虚しい人生でない、これらの煩悩を離れ、そして素晴らしい、安らかな人生、生きがいのある人生、それを送るにはどうすれば良いのでしょうか。その答えは、全て般若心経に書いてございます。

   般若心経の一番最初をご覧ください。「観自在菩薩」と書いてあります。これがヒントです。観自在菩薩とは、どんな仏様なのでしょう。これは、観音様のことなのです。

   観音様と言いますと、皆様「おや」と思われます。観音様にはまた別のお名前があります。そうです、一般的には「観世音菩薩」と言います。なぜ、同じ仏様なのにお名前が異なるのでしょうか。

   それは、観音様のお働きが大変大きく優れているからです。ですから般若心経というのは、「智恵の経典」なのです。

   般若心経等の智恵の経典に観音様が登場されるときは、観音様の智恵のお働きを象徴して、「観自在菩薩」と申し上げます。

   原語では、インドのサンスクリット語で書かれたお経には、両方とも同じで、アーリヤー・ヴァローキテーシュヴァラと書いてあります。それを中国で翻訳する時に、般若心経のような智恵の経典では観自在菩薩と訳しました。

   なぜ、観自在が智恵なのかと言いますと、これは、「一切万物は空である」という真理を観達された明慧自在の仏ということです。ですから真理を観達するのは、「智恵」でしかできません。仏の智恵であります。ですから「観自在菩薩」と申し上げるのです。

●2-2 観世音―――慈悲

   さて、今度は法華経や観音経等についてです。これらは「慈悲の経典」と言いますが、ここに観音様が登場されるときは「観世音菩薩」と申し上げます。なぜ、こう訳すかと言いますと、世間の人々が救いを求める音声(おんじょう)を観察して救済される仏ということですから、まさに慈悲のお働きでございます。

   昔は、よく捨て子がありました。子供が道端に捨てられて、ワーンと泣いております。その声を観音様がお聞きになるのです。観音様は世間の人々の音声を観察するわけですから。そして、観音様は救いに行かれるわけですが、そのままの姿で、あの金ピカな観音様の仏像のような姿で行かれますと、子供が恐れます。そこで、観音様は、救いに参られる時は必ず姿を変えて(これを変化と言います。変化身です)、救済に現れるのです。

   もし、捨てられた子供が小さな赤ん坊でございましたら、母親の姿に変えて救済に現れて、「おお、よしよし」と抱いてお乳を与えられる。これがありがたい観音様の変化のお働きです。

   ですから皆様方も、困った時には色々な救済の人が現れて救ってくださる。それは、大体、観音様が変化されて、お越しになっているのだと思ってくだされば間違いのないことだと思います。そのため、「観世音」と申すのです。

●2-3 菩薩―――清浄

   さて、観音様にはさらにもう一つ、優れたお働きがございます。それは、「菩薩」でございます。菩薩に共通したもの、つまり煩悩を払い清めた、清らかさです。仏教ではこれを「清浄(しょうじょう)」と申します。

   ここまで述べた、「知恵」「慈悲」「清浄」。この三つのお働きをもっていらっしゃるのが観音様でございます。非常に偉大な仏様です。

●2-4 観自在菩薩の三つのお働きと「無我」

   ではなぜ、この三つが大事なのか、すごいことなのかということです。

   一つ目の「智恵」というのは、広い目、大きい目で世の中を見て真実を見通す力でございます。この仏の智恵に目覚めますと、目先に囚われるという「愚痴」がなくなります。

   また、自分のことよりも相手のことを思う、思いやりと優しさという「慈悲」の心に目覚めますと、今度は、自分さえよければ、自分さえ儲かればという「貪欲」が消えてしまいます。
そして、煩悩にぬぐわれた清らかな境地である「清浄」。こうした境地になりますと、怒り、ねたみ、そねみといった心の高ぶり、瞋恚(しんに)が消えてしまうのです。つまり自我がきれいに消えてしまう。こういう偉大な働きをもっています。自我が消えた状態。これを我が無いということで「無我」と申します。我々は無我になって生きることが大切なのです。

●2-5 人は無我になれば仏である

   さて、仏教という言葉には仏という字があります。この「仏」という字を見てください。にんべんにム、と書いていますでしょう。人は無我になれば仏である、と教えてあるのです。

   ですから、仏教の仏とは、何も、雲の上に座ってらっしゃる方ではないのです。皆様方自身が悟って仏になってくださる。だから、「にんべん」がついているのです。必ず、「人」が仏になるのです。それも、自我を払って無我になる。人は無我になれば仏である、とちゃんと書いてあります。

   この間、あるところでこのような説明をしましたら、手が挙がりまして、「この仏という字は戦後に使われ始めた字です。戦前は違いました」とおっしゃいました。そうです、戦前の字はこれより少し難しい、複雑な字でございました。「佛」という字を書きます。「これはどういう意味でしょうか」と尋ねられました。

   これは、にんべんに払うと書いてあります。人が自我を払えば佛ということで、やはり先程と同じなのです。よくできているでしょう。人が無我になれば、「仏」である。人が自我を払えば、「佛」である。同じことを別の角度から言っているだけです。文字というのは非常によくできております。

   このようなお話をしますと、皆様方はこれから生きるヒントがお分かりになったかと思います。これからはもう、上で述べたような欲望の追求ではなく、仏の智恵を備え、広い目、大きい目で世の中を見通す、そして自分のことよりも相手のことを思う、思いやりと優しさ、そして煩悩を滅却したすがすがしさ、安らぎ。こうした境地に生きてくだされば、皆様方がその身そのままで仏になって生きることができる。このようなすごい生き方ができることを、般若心経には書いてあるのです。

                        (つづく)


   …………………………………………

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閲覧数859 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2012/01/09 10:13
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