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2009年03月22日(日) 
 先週、家内の伯母が亡くなりました。 94 歳でした。

 認知症にはなっていなかったが大分前から動けなくなっていたそうです。誰かに会いたいか…と聞いたら、死んでお父さん(亭主のこと)に合いたいとか。40歳位で夫を亡くしたそうです。死後に楽しみを持っている彼女を私は羨ましいな…と思います。

私は目下死後の世界の存在(実在)を信じていません。従って、あの世に行けば、先に逝った人に会えるとは思えません。

死後に期待はありません。もし現世において苦痛を感じているなら、それから開放される喜びがあるだけです。楽しく生きている間は死にたくはない筈です。

勿論、生きている間に死後の世界を信じて自分を律したり、苦痛を我慢したりする宗教を否定する気もありません。それにより開放される人がいるなら結構なことです。

自分の精神活動は脳や神経系の存在なくしてはあり得ないと私は思っており、脳と神経が死んだあとには精神活動も五感の神経活動もあり得ないと考えています。

臨死体験として取り上げられる幽体脱離については、呼吸器科と救命救急科の医師Sam Parnia(サム パーニア)が膨大な実験を計画しており、その結果によっては私も考え方を変える必要があるかも知れません。人の心や精神は脳や神経がなくても活動するのかも知れません。身体の関係しない所に存在することになります。

ただし、生きている時にその存在を確認できない死者の魂が、死後に認識できるようになることについてはもう一段階の説明が必要ですから大変です。Sam Parniaは理屈からは認識し得ないものや場所を臨死体験で認識できるかどうかを知る実験をするだけで、死者の世界が別個にあるかどうかまでを調べることは考えていません。私にはそれを科学的実験で確認することは不可能だろうと思えます。

まだSam Parniaの実験は開始されていないように見えます。研究費が集まらないのかも知れません。

閲覧数1,814 カテゴリ日記 コメント6 投稿日時2009/03/22 10:50
公開範囲外部公開
コメント(6)
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  • 2009/03/23 00:35
    鉛筆コッチさん
    kata0133さん

    >死は生を輝かす為に意味があると思います。<

     そう思います。人生は最後に死があることを意識して評価することは必要ですね。それにより輝きもするでしょうし、終焉を考えてこそ輝かしい計画も立てられる訳けです。

    ただ、死はそのために作られたものではなく、元々存在するものです。この世での人生を有効に生きるために、死を利用した方がいいという訳です。

    これは人間にできるだけで、他の生物にはできないだろうと思います。だから幸せであるかどうかは別にして、幸せな解釈を見つけたい。それが宗教ではないかと思っています。

     科学が発達しても、死後の世界の解明はできないと思うし、それをやることは宗教を冒涜することになるように思います。認識能力にとって肉体が必須がどうかの調査が限界でしょうね。
    次項有
  • 2009/03/23 00:16
    鉛筆コッチさん
    スタンレーさん

    チャレンジして生まれてきた訳ではないのですが、結果としては確かに冒険ですね、拒否できない冒険。

    輪廻も前世がライオンだったり、その前は虫だったり、永遠に続くのでしょうね。しかし、地球に動物が出現して以来、動物の個体数は大きく増えている筈なので、霊魂の数は次第に増えるのでしょうね。地球が彗星と衝突して消えた時、は次の移り先はないわけです。空席待ちしても無駄になりますね。魂は減ることはないのですかね。

    宇宙だか自然だか原理だか、呼び方は兎も角、魂は本来全体的な1個があるだけで、それがある人や犬に一時的に分岐しているだけ…との考えもあったように思います。

    お母様が教えに来られないのは、コミニュケーション手段がないだけなのか、いらっしゃらないのか。お母様が大きな1個に戻られたのか。
    次項有
  • 2009/03/23 00:02
    鉛筆コッチさん
    MIYUさん

    >「私をガラスの棺に入れて庭に置いておいてね」<

      今なら冷凍保存ですね。15万ドルだそうです。まだ解凍技術は卵子・精子・肝細胞などの部分的には兎も角、からだ丸ごとでは未完成ですから、生き返る保障はありませんが。王子様は来るだろう…というだけですが、高いですね。再生しても知っている人はもういない。

    ココロの存在場所と行方は問題です。

    昔、ソヴィエットで犬の首のすげ替え手術に成功しましたが、心は当然に頭と一緒に移るでしょうね。脳の部分移植をやらないと、どこにあるかは不明です。


    ココロは人間に特別のものとは思えませんから、犬にも猿にもあるでしょうし鼠はおろか、魚にも虫にも何らかのココロはある筈です、五分の魂かも知れませんが。死後の世界には生物発生以来の全ての生物のココロが存在するわけです。ココロに体積はないでしょうから、死後の世界は満員にはならないでしょうが、巡り会いが大変。

    ダライラマの転生は、前のが生きている間に探すのでしょうから、生まれ変わりとは言えないでしょうね。死後に探すのでしたかね。
    次項有
  • 2009/03/22 22:59
    ヒッチさん
    死は生を輝かす為に意味があると思います。

    死後の世界は人間が幾等考えても解らない
    と思います。
    次項有
  • 2009/03/22 22:57
     凄い題名ですね。
     おもえば、なんで生まれたかわからんまま生まれますが、次どうなるかわからんまま逝くんですね。これだけで、もうチャレンジャーですね、すべての生物は。お釈迦さんは、無記っていわれたんでしたね。
     霊魂が不滅だと、どの時点の霊魂が輪廻するのかっておもいますね。今のところ、亡母は死後の世界をこっそり教えに来てはくれません。
    次項有
  • 2009/03/22 16:22
    MIYUさん
     幼い頃 死ぬことよりも死んだら焼かれることが怖かった。
     熱さのショックで生き返ったらどうするの。

     母に約束を迫りました。

     「私をガラスの棺に入れて庭に置いておいてね」

     王子様が通りかかってゆり起してくれるかもしれないではないですか。

     ぷぷぷっ。

     田んぼの中に点在する集落を王子様が通りかかるかどうかには、また不細工な田舎娘をゆり起してくれるかどうかには思い至らなかったようです。

     今はあの時よりは自分が死ぬ日が来ることをそして肉体が焼き尽くされることを受け入れているようです。ひとりだけず~~~っとず~~~っと生きていなさいと言われたらそっちの方が苦痛かもしれません。

     年老いた両親と接しているときは「長生きしたら死の苦痛が少ないんだから頑張って長生きしようね」と言っています。

     森で朽ちていく老木のような死のイメージが安らかです。

     ココロは…どうなんでしょう。

     「あら…ここにいたのね」ふすまを開けたらこの世から去って行った懐かしい人々の顔顔顔…

     死がこんなふうであったらどんなに素敵でしょう。でも素敵であったとしてもまだ「この世」の方に知り合いの多い私は遠い先のこととして夢見ているだけです。

     「魂は胸にあるのか頭にあるのか」

     日本語の新年会で私がそんな話題を持ち出して大受け(笑)

     「情熱的な韓国人は「サランヘヨ[愛してる]と胸に手を当てるけどココロは頭にあるんだよね」と私が言えばお茶目なTさんがひょうきんな表情で「頭に手を当てて愛してるよっていわれてもねえ」とまぜっかえして大笑い。

     アタマだとしてもムネだとしてもココロも肉体の死とともに消滅してしまうんだろうか。

     もしココロは不滅というならだんだん見えないココロで過密状態になってしまわないのか…あるいは誰かに乗り移って(ヤドカリが殻を変えるように)生き続けるのだろうか。

     コッチさん。コッチさんのせい(おかげ)でチベット仏教に関する記事を読み始めた私はダライラマの次の生まれ変わりのことがちょっと心配(笑)なんですよねえ。
    次項有
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