幼い頃 死ぬことよりも死んだら焼かれることが怖かった。
熱さのショックで生き返ったらどうするの。
母に約束を迫りました。
「私をガラスの棺に入れて庭に置いておいてね」
王子様が通りかかってゆり起してくれるかもしれないではないですか。
ぷぷぷっ。
田んぼの中に点在する集落を王子様が通りかかるかどうかには、また不細工な田舎娘をゆり起してくれるかどうかには思い至らなかったようです。
今はあの時よりは自分が死ぬ日が来ることをそして肉体が焼き尽くされることを受け入れているようです。ひとりだけず~~~っとず~~~っと生きていなさいと言われたらそっちの方が苦痛かもしれません。
年老いた両親と接しているときは「長生きしたら死の苦痛が少ないんだから頑張って長生きしようね」と言っています。
森で朽ちていく老木のような死のイメージが安らかです。
ココロは…どうなんでしょう。
「あら…ここにいたのね」ふすまを開けたらこの世から去って行った懐かしい人々の顔顔顔…
死がこんなふうであったらどんなに素敵でしょう。でも素敵であったとしてもまだ「この世」の方に知り合いの多い私は遠い先のこととして夢見ているだけです。
「魂は胸にあるのか頭にあるのか」
日本語の新年会で私がそんな話題を持ち出して大受け(笑)
「情熱的な韓国人は「サランヘヨ[愛してる]と胸に手を当てるけどココロは頭にあるんだよね」と私が言えばお茶目なTさんがひょうきんな表情で「頭に手を当てて愛してるよっていわれてもねえ」とまぜっかえして大笑い。
アタマだとしてもムネだとしてもココロも肉体の死とともに消滅してしまうんだろうか。
もしココロは不滅というならだんだん見えないココロで過密状態になってしまわないのか…あるいは誰かに乗り移って(ヤドカリが殻を変えるように)生き続けるのだろうか。
コッチさん。コッチさんのせい(おかげ)でチベット仏教に関する記事を読み始めた私はダライラマの次の生まれ変わりのことがちょっと心配(笑)なんですよねえ。