私も全く同感です。佛教は生きる為に有ると思います。
親鸞は自分の墓も要らんと言いました。
遺体は鴨川に流し魚のえさにしてくれ、とまで言いました。
合理的です。私は死んだら終わりだと思います。
お盆の行事;親戚一同があつまって、故人をしのんだり、お坊さんの説教を聞いて死について考えたりすることは、楽しくて有意義なことだと思います。ただそれは遺族にとってのことであり、故人もしくはその霊には無関係だ…と私は考えます。 昨年も冷やかしたことを書きました。 http://www.sns.ochatt.jp/modules/d/diary_view.phtml…=&l=30 ![]() 私は知りませんでしたが、親鸞聖人も死者の霊がお墓に来ることは絶対にない…と云っていたそうですね。 「弥陀に救われている人は、死ねば浄土へ生まれて大活動するから、当然、墓石の下などにはいないし、救われていない者は、後生、永く苦患を受けなければならないから、これまた墓に集まることなどできることではありません。」のだそうです。 当然に仏壇にも来ない。 http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0423.htm ![]() 私は死後に個としての意識持ったもの(魂?霊?)が存在し得る…とは思えない(これは親鸞聖人と相違する)ので同感です。あの世に行けば懐かしい人々会える…なんて考えたこともありません。懐かしい人々の面影もしくは人格を持った個別の存在がどこかに居たり、また神経が死滅した後であるにもかかわらず何かに出会ってそれが懐かしい存在であるかどうかを認識できる理屈が判らない。死に対するおそれから逃げるためにそう思い込むのは個人の自由でしょうが…。懐かしい父母に会える…と考えることで死と向き合うことを避けるのも気楽でいいかも知れない。死と向き合ったから…といって、後何らかの効果が出てくる筈もないでしょうからね。 「仏教で葬儀が開かれる意義は、参列した人が、亡くなった方をご縁として無常を見つめ、真実の仏教を聞き、本当の幸せに救い摂られることにのみ、あるのです」 http://kazoku.sub.jp/etc/090525sougi.htm ![]() 死者の魂云々かんぬんは民話・説話とし、それとは別に有意義な行事を楽しみましょう。 玄関に送り火や迎え火を灯したり、暑い夏の夕暮れに涼しい河原で灯籠に灯をともし、ゆらゆら流れて行くのを静かに見守る…なんて後世に残したい日本的な美しい行事ですね。 我が家にもお墓や仏壇はあります。家内が仏壇には花を飾ったり、もらい物の果物を供えたりしていますが、そうやって故人を思いやることはいいことだ…と思っています。お墓は遠いので、何年かに一度しかお参りしませんが、近くにいる弟は毎年行っているようです。 お参りの頻度が少ない…とご先祖様がむくれる…なんてあり得ない筈です。 . |